参勤交代②~道中の苦労と悲喜こもごも編・身も心も疲れ果てる大名行列~

前回からの続きです!

参勤の苦労

準備ができたら、いよいよ江戸に出発です!
もう後は歩くだけって?もちろん本番はこれからです。
まずは道中の苦労話からです。

駕籠(かご)の中の苦痛

大名は、基本的には駕籠に乗って移動します。
なんだよ、駕籠に乗って楽しやがって!
でもそうでもないのです。
駕籠の中には薄い布団が敷いてあるのですが、乗ったままでいると足も腰も痛くなります。
とはいえ、ぶ厚い布団を敷くと駕籠が重くなり、持ち手が苦労する・・・
さらに、駕籠の中は狭いので、何日も乗っているとエコノミー症候群のようになってしまいます。
ですから、駕籠を降りて家臣と一緒に歩いたり、騎馬で進んだりもしました。
特に急勾配の道では駕籠が大きく傾き、乗っていると危険でした。
ちなみに緩い勾配では駕籠に乗りますが、上りの時は前向きに座り、下りの時は後ろ向きに座ったそうです。
体勢は常に前傾ですね。想像したら面白いですよね。
ただ、家臣からしたら曲者が現れたときに、駕籠に乗っていてくれるほうが守りやすいのです。
そういう理由で、基本的には駕籠に乗って移動していました。

夜も眠れるわけではない

この通り、大名は駕籠の中で体中痛くなり、宿につくと駕籠から解放されます。
もちろん、疲れているのは大名だけではないですが・・・
では宿についたらゆっくりできたのでしょうか?
そういうわけにはいきません・・・
そもそも、大名行列というのは軍の行列です。
ニュースなんかでも軍隊の行進の映像を見たことがあると思いますが、あれに近いと考えてください。
つまり、大名行列は、いつでも戦闘態勢に入れるようにしておかなければなりません。
夜も例外ではないのです。
大名がガーガーねていると寝込みを刺客から襲われかねません。
ではどうするのか・・・
寝ずの番をする付き人(「小姓」といいます)が、枕もとで本を音読し、「大名は起きている」とアピールするのです。
もちろん大名は寝てもいいのですが・・・
寝れねぇよ!
実際、大名は夜あまり寝ることができず、道中の駕籠の中でよく仮眠していました。

すれ違いは避けたい!

全力で回避すべし!

大名行列には大名のプライドがかかっています。
日本中で江戸に向かう大名行列があるので、それだけすれ違う可能性も増えます。
しかし、大名にとって、すれ違いはできるだけ避けたいものでした。
大名には「家格」というものがあります。
行列ですれ違う際は、家格の低い大名が道を譲る、というルールがありました。
家格の低い大名とはいえ、家臣の前で道を譲る姿など見せたくありません。
だから、向こうから行列が来た時などは全力で道を変更します。

御三家などもってのほか!!

特に、徳川御三家とすれ違う時は道を譲るどころではありませんでした。
御三家とは尾張、紀伊、水戸の徳川一門で、葵紋を使うことが許されていました。
水戸黄門の印籠がわかりやすいですよね。
御三家の行列とすれ違う時は、行列をとめ下座して挨拶する必要があります。
しかし、行列をとめて平伏するなどプライドが許しません。
何が何でも事前に察知し、道を変更する必要があったのです。
大名がすれ違いに神経をとがらせていた姿が想像できますね。

江戸で巻き起こる通勤ラッシュ

参勤交代は、江戸で1年間将軍の家臣として働くシステムです。
江戸にいる間は、江戸城に登城して将軍に会うことが義務付けられていました。
毎月定例の登城日が定められるほか、特別な日や儀礼の日も登城が必要です。
年間20~30日は江戸に登城するのですが、この時、江戸中の大名が城に向かうのです。
もちろん大名が一人で城に向かうのではありません。
また行列を組んで城に向かうのです・・・
当然かなり混雑します。
江戸城への登城も遅刻は厳罰。
もし途中で御三家と出会おうものなら下座して挨拶。これで遅刻するかもしれません。
万が一にも遅刻しないように、2時間前ぐらいには出発し、門の前で待機していたそうです。

お金がない!!

取り立てにあう

参勤交代には多額の費用がかかります。
商人にお金を借りて、参勤することも少なくありませんでした。
借金の返済を怠ると、江戸から国元へ帰ろうとするときに、商人が江戸の藩邸にやってきて支払いを迫ります。
大名からすると、藩邸の前でこんなことされるとかっこ悪くて外に出られません。
早く帰りたいのに帰れない、という状態になってしまうのです。
中には借金返済の猶予をお願いするために、藩士が切腹覚悟で商人と談判したといいます。

路銀が尽きる

国元に帰る道中でお金が無くなることもあります。
帰国の際にお金がないまま出発し、道中で国元からの送金が届くはずが届かない・・・
お金がないと馬を借りたり、渡船を依頼したりできない・・・
結果的に立ち往生してしまいます。
でも、こんなことは珍しくなかったそうです。
こぶた
なんか考えることが今と変わらない気がするね!
ぶたちく先生
僕たちの先祖だからね。考えてることが理解できるからこそ面白く感じるのだろう!

薩摩藩の大移動と巻き込まれた人々

前回の記事で、大名行列は石高に応じてその規模が変わると書きました。
日本一の石高は加賀藩前田家の百万石
実は2位は薩摩藩島津家でした。
しかし、島津家は今でいう鹿児島・・・
どう考えても大変なはずです。
あとは、大名でもないのに、江戸に向かうことになった人たちのお話です。

薩摩藩の島津家「遠い!もうゆっくりでいいや!」

余裕のペースで

薩摩藩の参勤は何と片道約2か月・・・
でも少しかかり過ぎじゃないですか?
なんと、島津家は大阪や伏見で数日滞在していたそうです。
大阪や伏見に屋敷があったので、船旅の疲れを癒していたのかもしれません。
東海道を歩く時も割とゆっくりで、ほかの大名よりもペースが遅かったそうです。
なぜかは分かりませんが、なんか余裕を感じますね。

大船団

そんな島津家のルートは瀬戸内海を海路で進み、大阪まで行きます。
そこからは東海道を陸路で行くというものでした。
舟はおよそ50艘の大船団です。
この時代、船での移動は海難事故も懸念されました。
そのため、江戸中期以降は、できるだけ陸路を使うようにしたそうです。

エ?ワタシモデスカ?

当時日本は鎖国していたものの、オランダや朝鮮とは外交関係がありました。
オランダは幕府の許可を受けて、貿易をしているのです。
つまり、当然幕府にオランダ商人の忠誠心を示す必要がありました。
というわけで、長崎出島のオランダ商館長は、毎年江戸に行きました。
オランダ商館長は、世界情勢をまとめた書類(「オランダ風説書」といいます)を幕府に提出します。
さらに将軍に挨拶、貿易の許可についての感謝と継続のお願いをしました。
長崎から、江戸まで毎年です・・・
厳密にいえば参勤交代ではないのですが、オランダ商館御一行もまるで大名行列のようでした。
大名行列はオランダ人は数人に対して、日本人は50人から60人・・・
ほとんど日本人です。
この日本人は、必要物資の他、将軍らへの献上品や道中の幕府関係者への進物を持っていました。
江戸に到着すると、将軍に拝謁したり、関係者へのあいさつ回りをします。
約1か月ほど滞在して、また長崎に帰るのです。
江戸幕府で貿易するのも大変ですね・・・

琉球からのお祝い

さぁタイトルからして絶対やばいです・・・
そう、琉球王国の使節も江戸に行くことがありました。
オランダ商館長と同じで参勤交代ではありません。
将軍の代替わりの時や、琉球国王の代替わりの時に琉球使節が江戸に向かいました。
琉球を支配していたのは島津家です。
琉球使節は島津家が参勤するときに合わせて、江戸に向かいます。
琉球使節自体は100人から200人程度だったそうですが、薩摩藩の大名行列も加えれば1000人規模の大所帯となります。
しかも江戸に向かう際には、なぜか中国風の衣装を身にまとう必要がありました。
幕府が日本国外にも支配を及ぼしていることをアピールしたかったのです。
道中は琉球使節を見物したい人たちであふれ、琉球ブームが巻き起こったそうです。
オランダ商館長と同じように江戸で将軍に拝謁し、また琉球に帰るまで、なんと11か月の長旅だったそうです。
本当に毎年じゃなくてよかったです・・・
こぶた
11か月て・・・ほぼ1年間・・・
ぶたちく先生
それだけ徳川幕府に権力や権威があったということだね!

最後に

2回にわたってお送りしてきた参勤交代、いかがでしたか?
参勤交代は実に藩の出費の5~10%に達しました。
これは藩のメインイベントと言っていいレベルです。
これだけのお金が使われた参勤交代は、国元、宿場町、江戸城下には莫大な経済効果を生みました。
国元は大名が帰国時には無事を祝ってお祭り騒ぎ
宿場町は宿代や日用品の販売
江戸では1年間生活に伴う消費
ある意味で藩のお金が日本中に分散する貴重なイベントにもなりました。
今回は参考文献があります。
この本も面白いですが、歴史が苦手な方も参勤交代の話は読みやすいと思うので、関連書籍なども読んでみてください!