参勤交代①~大名行列の現実と旅の準備編・大名のメンツと日常を守れ!~

「天下分け目の関ケ原」
徳川家康は、東軍の大将としてこの戦いに勝利し、江戸幕府を開きました。
江戸幕府では幕藩体制が確立し、将軍は全国の大名を統制する必要がありました。
その一環が「参勤交代」です。

日本人の誰もが耳にしたことがあるこの制度に、多くの大名が翻弄されました。

そのパニック感が面白く、小説や映画にもなったほどです。
小説や映画にはフィクションも含まれますが、参勤交代が大名の頭を悩ませていたのは事実です。
今回は、知れば知るほど面白い参勤交代について解説したいと思います。
こぶた
お金がかかったり、急いだりしないといけなかったんだよね?
ぶたちく先生
その通り!まずは参勤交代がどんな制度だったのか見てみよう。

参勤交代

参勤交代はどんな制度か?

そもそも、参勤交代とはどのような制度なのでしょうか?
江戸時代、全国の大名は将軍の家臣でした。
家臣は、将軍のために働くのが仕事です。
つまり、参勤交代とは、「全国の大名が交代で江戸に来て将軍のために働く」ということを制度化したものでした。
簡単に言い換えると、1年おきに江戸に行って1年間働き、また国に帰る、という制度です。
これは、ある程度の自治を認められた各大名の忠誠心を、徳川幕府が確認する重要な儀礼でした。
もし、この参勤を怠れば「謀反の意志あり」として、処罰されます。
処罰は罰金とかのレベルではなくて、最悪の場合「家のお取りつぶし」まであり得ます。
したがって、大名が参勤の義務にしたがうのはとても大切な事だったのです。
しかし幕府も鬼ではありません。一部の大名は参勤が免除されました。
例えば、大名が幼すぎる場合や病気の場合がそれにあたります。
他にも、国元に飢饉が起きた、大火があったなどの災害関連の場合も免除されました。
大名によっては、幕府の役職についている者もいます。京都所司代や大阪城代がそうですが、参勤されては業務に影響がでます。
1万石以下の大名も経済的に参勤が難しいので江戸への常駐が認められていました。
大名それぞれの事情によってそれなりに柔軟な対応をしていたようです。

大名のプライド「人数編」

各大名は大名行列を組み、国元から江戸へ参勤し、そして江戸から国元へ帰国していました。
華々しく見えるこの大名行列ですが、実際にはどのようなものだったのでしょう?
大名行列は、多くの場合150人から300人程度でした。
人数は各大名の石高によって増減したようです。大名のプライドが見え隠れしてきましたね・・・
加賀百万石の前田家は4000人にも達したと言われています。
大所帯の大名行列ですが、ここまでの人数がいるのは、出発時と到着時の2回だけで、道中は約3分の1程度の人数になります。
例えば、参勤のために国元を出発するとき、領民が見送りに出てきます。
でもみすぼらしい姿は見せたくない・・・
見栄を張るために大人数で出発すると、道中の宿代、食事代、人件費がかさむ・・・
だから、出発するときには同行の予定がない藩士まで行列に加わり、一緒に出発していきます。
そして、出発してしばらくすると、居残り組は引き返してくるのです。
このようにして道中はできるだけ人数を抑えました。
江戸到着時も重要です。
江戸には大名行列を見慣れた町人が居るだけでなく、全国から集まってきた大名がいます。
しかし、出発時のように居残り組はいません・・・どうするのでしょうか。
大名行列は江戸に入る直前で、江戸に詰めている藩士が加わり、それだけでなく大名行列に加わる人を臨時雇用(いわゆる「サクラ」)して、体面を保ったのです。
後世では、参勤交代には「大名の出費を増やして力をつけさせないための制度だった」という見方もあります。
それもあるかもしれませんが、江戸幕府は
「大名行列の人数が多すぎる。国元の領民に負担をかけることになるんだから減らすように」
というお達しも出しているのです。
ですから大名行列の人数が多いのは、大名側のメンツという面が大きいと考えられます。

大名のプライド「見た目編」

先ほども述べたように大名行列はメンツが重要です。
多くの人が「おおっ!さすがお殿様!」と唸るものにしなければなりません。
先頭では槍を投げあうパフォーマンスを行い、礼装で荘厳な大名行列。
それもやはり出発時と到着時だけです・・・
参勤交代の道中はとても急ぎます。
なぜなら宿泊回数が増えれば、それだけ経費が増えるからです。
夜明けから日が暮れるまで一日平均35キロ歩いたと言います。
それも重い荷物をもって・・・
パフォーマンスなどしながら歩けるわけがないのです。
しかも礼装なんて動きにくい・・・見えないところでとっとと旅装に着替えます。
とにかく歩いて歩いて歩きまくる。
それが大名行列なのです。
こぶた
これはもう苦労話といってもいいのでは・・・
ぶたちく先生
うんざりした藩士もいるかもしれないけど、自分の国のメンツのためにみんな頑張ったんだね

まずは準備から

いつ行くか

参勤はいつでもいいというわけにはいきません。
まずは、幕府にお伺いを立てます。
使者に手紙を持たせて、「この時期に参勤してもいいですか?」と確認します。
幕府で確認後、命令書が出されて「あなたはこの時期に来なさい。」といわれます。
それを受けとると、再度使者をたて「ありがとうございます。」・・・
この時点でもう使者は2往復してます・・・
・・・電話やメールの偉大さを感じますよね。
ちなみに、指示された日は必ず守らなければなりません。
遅刻は大恥であり、処罰の対象です。
日程の決定は最優先事項なのです。
日程を決定すると、旅程をダイヤグラムのように綿密に作成し、あらゆる事態に備えたそうです。
現代の電車に通じるものがありますね・・・

どこを通るか、どこに泊まるか

江戸時代には200以上の大名が居ました。
大名によって、参勤の時期は多少分散するとはいえ、これだけの大名が参勤すると、各街道は大混雑します。
特に、江戸時代の幹線道路である「五街道」はあまり混雑しないように調整されました。
五街道は中山道、東海道、甲州街道、奥州街 道、日光街道のことです。
特に東海道は利用する大名が非常に多く、約150家が利用したそうです。
その150家にそれぞれ100人近い行列がいて、行きと帰りがあって・・・
東海道での宿泊場所の確保はとても大変でした。
半年ぐらい前から予約しないと、宿泊できないこともあったそうです。
宿泊の都度値切りの交渉をするのですが、機嫌を損ねると次から断られることもありました。
でも「宿場町が栄える」というのもうなずけますよね。

恐るべき持ち物

特に遠方の大名にとって、参勤の旅程が10泊以上になることなどザラにありました。
皆さんが旅行をするときに日数が増えれば増えるほど荷物が増えるように、参勤の荷物もかなりの量になりました。
さらに、大名にはいつも通りの生活をしてもらわなければなりません。
そのため、荷物の中にはトンデモないものがありました。

漬物石

なんで??
疑問が果てしない持ち物、漬物石。
わざと旅の難易度をあげていないか?とすら思います。
料理関係でいえば、大名行列に大名専門の料理番が同行していた、というのは意外ではないでしょう。
やはり、いつものコックじゃないと味が変わりますし、毒殺を防ぐという目的もあります。
さらに、毒見役の「台所奉行」も同行します。
その他、食料品も持っていきました。お米だけでなく、水、塩、醤油、漬物も運びます。
さらに漬物石・・・
これは漬物に重しを乗せないと、漬物の味が落ちるからだそうです・・・
しかし何とかならなかったんですかね・・・
美味しい漬物は絶対だったようです。

風呂とトイレ

風呂とトイレも携帯用のものを持っていきました。
風呂を持っていくという発想に感動を禁じえません。
当時、大名が宿泊する場所(「本陣」といいます)には風呂があったのですが、これは五右衛門風呂でした。
五右衛門風呂というのは、かまどの上に風呂釜をおいて湯を沸かし、板を踏み沈めて入るものです。
ただ、少し間違えば火傷する危険性があります。
だからちゃんとお風呂を持っていき、お湯をいれて大名が入浴していました。
快適な入浴のために風呂の椅子や手桶も持っていきました。
それだけではありません。トイレも持っていきました。
トイレは、台形の箱でできており、箱の底に砂が敷いてあります。
また、箱の上には穴が開いており、そこで用を足しました。
大名にお外でウンコをさせるわけにはいきません。
道中、何があっても安心ですね!

鉄の板

これは一部の大名だけなのですが、本陣に鉄の板を持ち込みました。
なぜかというと、寝るときに床下に曲者が居て、槍で突かれるようなことがあってはいけません。
寝床に鉄板を敷いて、その上にお布団を敷いて横になりました。
まぁこれだけ持っていけば、行列にもなりますよね。
こぶた
今の時代なら当たり前にあるものが途中にないもんね!でも漬物石いるのかな・・・?
ぶたちく先生
大名にいつも通りの暮らしをさせる、これが家臣たちの目標だったんだね!

その2に続く

今回は参勤交代制度の概要と面白い持ち物についてでした。
少し長くなりましたので、続編として次回は各大名の苦労話についてお話します!