みなさんは幕末と言えば、誰を思い浮かべますか?
坂本龍馬、新選組、西郷隆盛、徳川慶喜・・・
もう既に錚々たる顔ぶれですね・・・
今回ご紹介するのは、浅野長勲(あさのながこと)。
第12代広島藩藩主で、明治、大正、昭和を生き、「最後の殿様」と言われています。
どちらかと言えば知らない方のほうが多いかもしれませんが、明治維新における長勲の存在は非常に大きかったと言われています。
長勲はどんな人物でどんな人生を送ったのでしょうか?まとめてみました。

僕は聞いたことがないけど、そんなにすごい人なの?

昭和まで生きたということは、明治維新の際にまだ若かったということ。まずは長勲について知ることから始めよう。
浅野長勲について
最初に、簡単に長勲についてお話しましょう。
1842年7月23日、長勲は広島城下、現在の原爆ドームの近くに生まれます。
もともと、浅野家の家臣の家に生まれますが、広島新田藩の藩主の養子になります。
浅野家はその家系に豊臣秀吉に仕えた浅野長政、忠臣蔵で有名な浅野内匠頭がいます。
広島新田藩は、広島藩に世継ぎが居なくなったときに備えて存在する藩で、3万石の小藩でした。
しかし、広島藩主が世継ぎを残さず死去、若干17歳にして、広島新田藩の藩主となります。
さらに、20歳の時に広島藩主の世継ぎとなり、42万6千石の跡取りとなるのです。
広島藩は勤王派の藩で、長州や薩摩のように過激な活動はしていませんでしたが、その姿勢は明治維新を迎えるまで一貫していました。

もともとは広島藩を継ぐ予定はなかったんだね!

もともと広島藩には浅野慶熾という有望な藩主がいたが、若くして亡くなってしまったんだ!
長勲が過ごした幕末
長勲は若くして「勤王」という信念を持ち幕末を迎えます。
著名な人物と話すばかりでなく、その流れの中心にいた人物なのです。
孝明天皇に謁見する
孝明天皇は明治天皇の父にあたります。
長勲は勤王派の人間として、1863年に孝明天皇に京都で謁見しています。
孝明天皇といえば、外国を嫌い攘夷祈願をするなど、開国を何が何でもしない、というイメージを持つ人も多いのではないでしょうか?
しかし、長勲は孝明天皇と直接会談しており、全く違う印象を抱いています。
それによると孝明天皇は
時代の流れとして、いずれ開国すること自体は仕方ないと思っている。
そんなことしてたら日本は世界から取り残されてしまうから。
しかし、アヘン戦争で負けた清が香港を割譲させられるなど、西洋列強に圧力をかけられたときに日本がどうなるかわからない。
日本が清のようにならないようにするためには、日本がまず一つにならなくてはならない。
幕府と朝廷が一体となり、列強と対峙するための準備をまず行う。
その上で諸外国と対峙すれば、列強といえどもそう簡単に日本に圧力はかけられない。
そのようにしてから開国すればいい。
だからまずは朝廷と幕府が力を合わせなければならない
とのことでした。
単純に外国嫌いや保身、という話ではなかったということです。
孝明天皇とのこの会話は長勲が22歳の時直接話したそうです。
同時に、薩英戦争などを経て、内戦のために列強と武器の取引を行う薩摩や長州に苦言を呈しました。
この話を22歳で聞ける長勲は孝明天皇から相当信頼されていたと言えます。
直接会って聞いた話は、重みがありますね・・・
西郷隆盛に直談判する
幕府派と尊王攘夷派の対立が激化する中で、長州藩が京都御所で起こした戦闘(禁門の変)の後、長州軍は「朝敵」となります。
幕府は長州征伐軍を組織し、その大将は徳川慶勝、そして参謀が西郷隆盛でした。
さらに、征伐軍は広島に終結、長勲のいる広島藩は長州征伐の先鋒に命じらます。
長勲は「日本が一つになる」という孝明天皇の考えが頭にあったため、なんとか長州を許してもらうよう動きます。
これ以上、日本国内で争っても得をするのは外国、これから日本のために長州藩は必要だと考えたんですね。
長勲は幕府や朝廷に働きかけますが、やはり聞き入れてもらえません。
そこで、長勲は征伐軍の総大将・徳川慶勝にお伺いをたてます。
慶勝は概ね同意したうえで、参謀の西郷にも相談してほしいといいます。
ここで長勲は西郷と会談を持つことになるのです。
結果として、西郷は長勲の考えも聞き入れ、禁門の変の責任者の処分等のみで、寛大な処分で済まされたのです。
この時、長勲と西郷は互いを気に入り、その交友関係は明治にまで続くことになります。
ここで西郷が長州に攻め入っていたら、後の薩長同盟にも影響を与えたかもしれませんね。
坂本龍馬とも会っている
本来思想的に相容れなかった薩摩と長州ですが、長州征伐の後、薩長同盟を成立させます。
仲介したのは坂本龍馬です。
そんな坂本龍馬と長勲も会談しています。
龍馬と長勲をつないだのは、長勲の家臣の辻という人間でした。
長勲は龍馬に会い、薩摩、長州、土佐、広島の同盟や大政奉還の必要性について話したそうです。
大政奉還は徳川家康以来、徳川家が握っていた政権を朝廷に返上することです。
この時すでに薩長同盟は成立していましたが、もちろんこの同盟は表には出ていません。
したがって、長勲は知る由もないのですが、龍馬は自分が考えていることと同じことを考えている人間がいる、と驚いたそうです。
1年後、この話は現実となり、広島(安芸)、薩摩、長州は同盟し薩長芸同盟と形を変えるのです。
この時、長勲は龍馬のことを「すごい奴がいる!」と思ったので、龍馬が暗殺されたときには、惜しい人を亡くした、と悲しんだそうです。
徳川慶喜とも会っている。
少し話はさかのぼりますが、長勳は22歳の時に、徳川家最後の将軍徳川慶喜とも会っています。
もっとも、この時はまだ将軍になっていません。
この時、慶喜は14代将軍家茂の後見人でした。
長勲はなんとここで慶喜に大政奉還の必要性を訴えています。
しかもなんと、慶喜は「言っていることはよくわかる、ただ、300年続いた幕僚が承知しないのだ、将軍も私も困っている」ということを言い、涙を流したそうです。
なんかそんなこと言ったら怒られそうじゃない?って思うのですが・・・
それにしても慶喜も大政奉還の必要性を感じてたこととすればめちゃくちゃ意外です。
日本という国が列強と対峙するために自分がどうするべきか、慶喜にも考えがあったのかもしれません。
戊辰戦争の時、江戸城は抵抗せず、無血開城しました。
慶喜は逃げたとか色々言われていますが、もしかしたら、日本にとって最良の方法を選んだということも考えられます。

会っている人達がすごすぎる!!

それは長勲が信頼され、必要とされていたことの証拠になるね
次回へ
今回は幕末から維新にかけての長勲についてのお話でした。
ちなみに浅野長勲は当然、参勤交代もしており、晩年「駕籠に乗っているのが本当に体が痛かったです」と話しています。
長勲はこのあと戊辰戦争を戦い、明治を迎えます。
明治を迎えた長勲は新しい時代に翻弄されながら日本のために奮闘します。
ここからもすごくおもしろいので、続きもぜひ読んでください!