2024年中に発行が予定されている日本の新紙幣。
1万円札の肖像は1984年から福沢諭吉でしたが、ついに交代ですね。
新しい肖像は日本資本主義の父と言われる渋沢栄一。
渋沢栄一は幕末から明治にかけて活躍した人物です。
2021年の大河ドラマ「青天を衝け」でも取り上げられましたね。
渋沢栄一は日本で初めて銀行を創設するなどの功績で有名ですが、もう一つの顔がありました。
それは、最後の将軍・徳川慶喜の幕臣であったということ。
徳川慶喜は、徳川家康が開いた徳川幕府260年の最後の将軍として有名です。
しかし、戊辰戦争の時に家臣を置いて大阪から江戸に逃げ帰ったり、江戸城を無血開城したり・・・
どちらかというと、頼りないイメージがある方も多いのではないでしょうか。
しかし、渋沢栄一は慶喜の汚名を返上することもライフワークとしていたことから、ただ頼りないばかりの「最後の将軍」ではなかったとも考えられます。
今回は渋沢栄一が残した記録等を参考に徳川慶喜がどんな幕末を過ごしたのかにつきお話したいと思います。
最後の将軍っていうこと以外はよく知らないなぁ・・・
慶喜の評価は分かれるだろうけど、日本の為に最善と思う行動をした人だと思ってるよ!
目次
生まれ
慶喜は1837年、水戸藩主・徳川斉昭の七男として生まれます。
幼名は「七郎麿(しちろうまろ)」
慶喜が生まれたのは江戸の水戸藩の屋敷です。
しかし、当時の水戸藩には、水戸黄門として有名な徳川光圀の「子供たちは水戸で育てる」という方針が浸透しており、慶喜は幼少期を水戸で過ごすことになります。
今でいうところの、「子供は田舎で育てる」みたいな感じですね!
学問にも武術にも秀でていた慶喜は、大きな期待を受けていました。
そんな中、10歳の慶喜は、徳川家第12代将軍家慶から一橋家を相続するように言われます。
父の斉昭は聡明な慶喜を他家に出さない方針でしたが、将軍の頼みとあれば断ることができません。
さらに一橋家は徳川御三家に次ぐ家格である「徳川御三卿」の一つ。
1847年、慶喜は一橋家を相続することが決まります。
元服する際に将軍家慶の字を一文字もらい、「一橋慶喜」が誕生するのです。
水戸黄門は偉大だね!
ちなみにこの記事の一番上の写真は斉昭と七郎麿の像で、水戸市にあるよ!
将軍の後継者争い
後継者争いに負ける
1853年、浦賀にペリーが来航した直後、12代将軍家慶は死亡します。
将軍を継いだのは13代将軍家定。
しかし、13代将軍に就任した家定は体調がすぐれず、政務をまともに取り仕切ることができませんでした。
黒船の来航は日本に衝撃を与えた大事件です。
国が大混乱になる中、政治の安定ができる将軍が日本には必要でした。
有力大名たちは、新将軍の擁立に動き、後継者争いが生まれてしまいます。
慶喜を擁立する一橋派、紀州藩主である徳川慶福(よしとみ)を擁立する紀州派が対立してしまうのです。
しかし、家定の体調が悪化すると、紀州派の家老であった井伊直弼が大老に就任。
これが決定的になり、慶喜は将軍にはなれず、徳川慶福が徳川家茂と名前を改め、14代将軍に決定したのです。
ただ、慶喜は将軍候補にまつり上げられただけで、自らは将軍になることは望んでいなかったとも考えられています。
桜田門外の変
板挟みの井伊直弼
当時、1853年に締結した日米和親条約に基づき日本は開国していました。
しかし貿易はまだ再開していませんでした。
当然アメリカからは通商(貿易)の要求がされていました。
しかし、当時は攘夷運動が盛んな時期、条約の締結は非常にデリケートな問題だったのです。
朝廷にも攘夷論者が多かったため、朝廷の承諾を得た上で条約を結ぶことが非常に大事だったのです。
反対に幕府側には開国すべきとの声が多く、井伊直弼は板挟みになってしまいます。
最終的に、井伊直弼は朝廷の承諾を得ないまま日米修好通商条約に調印してしまいます。
安政の大獄
朝廷の意向を無視した条約調印の強硬に攘夷論者が猛反発。
一橋派も巻き返しにかかります。
慶喜も井伊直弼を詰問します。
井伊直弼を一気に失脚させようとしますが、逆に井伊直弼に弾圧されてしまいます。
1858年に起きたこの弾圧が吉田松陰などを処刑した「安政の大獄」と呼ばれるものです。
水戸藩主で慶喜の父・斉昭は「永蟄居」という城の外に一生出られない処分を受けます。
さらに慶喜も隠居・謹慎処分を受けてしまうのです。
結果的に慶喜はまた負けてしまったのです。
井伊直弼の暗殺
しかし、ここで終わらないのが幕末という時代でした。
水戸藩主である斉昭を永蟄居という処分に追い込まれた、水戸浪士たちが動きます。
1860年3月3日のことです。
雪模様のこの日に水戸浪士達が、江戸城の桜田門外で井伊直弼を急襲、暗殺したのです。(桜田門外の変)
展開がめちゃくちゃ早いですよね。
こうして幕府により斉昭や慶喜は謹慎を解除されることになったのです。
井伊直弼も苦しんだんだね・・・
幕府の意向も朝廷の意向も聞かないといけないからね・・・為政者の宿命かもしれないね
将軍後見職に
慶喜幕政に戻る
謹慎解除から2年。
慶喜は今度は薩摩藩にまつり上げられます。
薩摩藩は一橋派です。
当時の薩摩藩の実質的トップであった島津久光は朝廷の後ろ盾を得た上で幕府と交渉し、慶喜を将軍後見職に就任させたのです。
ちなみに、ほぼ同時に大老に相当する「政事総裁職」には、名君と言われた越前藩の松平春嶽が就任しています。
慶喜らは「文久の改革」と呼ばれる改革で、参勤交代を緩和したり、京都守護職を設置。
京都守護職は、当時、京都で攘夷派の志士による暗殺や強盗などが横行していたため、その取り締まりと、有事の際の近畿の軍事指揮権が与えられた要職です。
そして京都守護職には後に新選組を擁する会津藩主の松平容保(かたもり)が就任しています。
苦しむ慶喜
幕政に戻った慶喜ですが、ここからの道も簡単ではありませんでした。
攘夷実行を迫る朝廷と攘夷派の大名たち。
幕府も朝廷には逆らえないため、14代将軍家茂は上洛し、攘夷の実行を宣言することになります。
しかし、幕府の人間はみなわかっていました。
攘夷などそもそもできないということを・・・
日本の政権として外国と交渉していた幕府の人間は日本が外国に勝てないことを最も肌で感じていたのです。
慶喜も攘夷派ではありませんでした。
しかし「攘夷などできるわけないだろうが!」とは誰も言えなかったのです。
家茂の上洛に先立ち、慶喜は上洛し、国際情勢や外国の強さを、攘夷を強行しようとする朝廷に説明します。
慶喜は当時の関白(天皇の補佐)に外国の蒸気船の話、大砲の話をして、「攘夷は大変ですよ」ということを伝えようとします。
しかし、関白は
「なるほど!しかし日本には大和魂がある!」
と話は堂々巡り。
そしてついに慶喜は折れて朝廷と攘夷の実行を約束してしまうのです。
このあたりの慶喜の板挟みは浅野長勲も自叙伝に書いているので間違いないでしょう。
孝明天皇は「徳川家に任せるほかない・・・」と慶喜に本音を漏らしています。
外国に負けないようにするために日本を治められるのは徳川しかいないというのです。
しかし、慶喜からしたら
「この状態の日本でどうしろというのだ・・・」
と言いたかったことでしょう。
開き直る
朝廷に攘夷を約束し、慶喜は江戸にもどります。
当然、開国派の幕府から反発を受けますが、これを押し切ります。
その後再度上洛。
攘夷を推し進める姿勢を見せ続けることで、朝廷の信頼を得ることに成功します。
そして、将軍後見職を辞し、朝廷から「禁裏御守衛総督」に任命されます。
これは御所警備の最高責任者。
朝廷からの信頼が見て取れますね。
さらに長州藩が蜂起した禁門の変でも朝廷守備のため自ら戦いました。
以後、長州藩との戦いの前面に立つことになるのです。
そんな中、1865年、英米仏蘭が日本に開国を要求し、また日本は大混乱。
このタイミングで慶喜は攘夷の仮面を脱ぎ捨て、開国に向けて行動を開始します。
なんと、攘夷の朝廷を押し切り、条約勅許(朝廷の承諾)を得ることに成功したのです。
ここから慶喜の最終局面が始まります。
当時の人はみんな日本を守るためにどうするか真剣に考えていたんだね・・・
そのとおり!ただ方法が違ったんだ・・・だから実際に政権を持つ人間は常に周囲との調整に奔走していたんだ
将軍就任と大政奉還
第15代将軍
第二次長州征伐で、慶喜は長州藩征伐の勅命を受けます。
しかし、幕府は連敗。
さらに将軍家茂が大坂城で病死し、長州藩と休戦状態になります。
状況からして15代将軍は慶喜しかいませんが、慶喜はこれを拒否します。
だって、将軍になっても幕府には反慶喜派がたくさんいますから・・・
もう少し仲間を増やしてから、という思いがありましたが、1867年、決意し第15代将軍に就任します。
大政奉還
慶喜は将軍就任から1年もたたないうちに、急激な行動にでます。
なんと大政奉還を朝廷に奏上したのです。
大政奉還、つまり、政権の朝廷への返上です。
しかし、朝廷もこまるのです。
なぜなら急に言われても政治などできないから。
結果的に、朝廷は徳川家に「とりあえず今まで通りやって」と再委任するのです。
王政復古の大号令
西郷隆盛らの武力倒幕派も肩透かしを食らいます。
なんと、慶喜が大政奉還を上奏した日と、朝廷が薩摩藩と長州藩に「倒幕の密勅」が出たのは同じ日。
薩摩と長州は「倒幕する」という事実が大事だったのです。
しかし、慶喜は自ら政権を返上し、困った朝廷が再委任・・・
「何も変わらねぇじゃねぇか!」と行動を開始します。
薩摩藩をはじめとする5つの藩が政変を起こし、朝廷を掌握、新政府の樹立を宣言します。
これが「王政復古の大号令」といわれるものです。
戊辰戦争と表舞台から去る慶喜
政権を再委任された慶喜は大坂城にいましたが、突然の政変でまた政権を失います。
大坂城にいる慶喜と京都の新政府の間の緊張が高まります。
さらに、江戸から続々と大阪に慶喜の兵力が集まります。
そしてついに慶喜は薩摩藩の討伐を命じ、京都に進撃、「鳥羽伏見の戦い」が起き、戊辰戦争が始まります。
この薩摩藩の討伐は、家臣たちを抑えきれなかっただけで慶喜の真意ではなかったかもしれません。
ただ、戦争は始まってしまったのです。
しかし、最悪の状況が起きます。
開戦から数日で朝廷は慶喜討伐軍を組織し、慶喜は朝敵となったのです。
朝敵とは天皇や朝廷から正式に敵とみなされた者です。
これにより、戦意を喪失、多くの兵士たちを戦場や大阪に残したまま、江戸に船で向かったのです。
この逃亡ともいえる行動が後世まで批判を受けることになります。
その後新政府軍は、慶喜のいる江戸城に向かいますが、慶喜は江戸を無血開城し、命を助けられます。
こうして、慶喜は表舞台から姿を消し、水戸での謹慎生活を始めることになります。
ここまでが慶喜の前半生です。
長かったね・・・最後だいぶハショったでしょ・・・
な、何を言っているんだい?次回は明治を生きた慶喜のお話だよ!
次回は明治を生きた慶喜についてのお話です。