今川義元「過小評価されすぎ?」~桶狭間に散った東海一の弓取り~

JR静岡駅のすぐ近くにある、駿府城公園
駿府城は江戸時代に入ってから築城され、徳川家康が隠居後に居住した城でもあります。
しかし、私は「駿府」と聞いたときに最初に出てくる大名の名前があります。
「今川義元」
桶狭間に散った、その話で彼はあまりに有名です。
今回は、そんな今川義元についてのお話です。
こぶた
うーん・・・今川義元の名前と、信長に負けたことしか知らないよね
ぶたちく先生
歴史は勝者が作るからね。一緒に調べてみよう!

信長の引き立て役になる

皆さんは、今川義元についてどこまでご存じですか?
「1560年 織田信長が桶狭間の戦いで今川義元を破る」
日本史ではこれぐらいの記載じゃないでしょうか。
そして、このことはほぼ全ての日本人が知っていることでしょう。
そこから始まる織田信長のサクセスストーリー、その開幕を飾る相手なのです。
これだけならまだいいのですが、
少数の織田軍に負けたことから、大軍なだけで弱い大名と言われたり・・・・
和歌を好んだことから、戦国時代で公家ぶったイタイやつと思われたり・・・
ただ負けただけじゃなくて、「愚かな大名」というレッテルを貼られています。
しかし、今川義元は本当に愚かな大名だったのでしょうか?
こぶた
最近のゲームとかでも、変なキャラにされてたりするよね・・・
ぶたちく先生
全くそんなことはないんだけどね・・・本当に愚かなら大名にはなれない、そんな時代だったんだ。

今川義元が愚かではない理由

それでは、今川義元が愚かではないという理由を挙げてみましょう。

理由① まわりは強敵ばかりだけどなんとかする

まず当時の地理を整理しましょう。
今川家の領地は、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)です。
(静岡県ぐらいで思ってください。)
東には相模の北条家
(伊豆、神奈川、東京、ぐらいに思ってください。)
北には甲斐(かい)・信濃の武田家
(長野、山梨ぐらいに思ってください)
西には三河(愛知県の東のほう)の松平家を挟んで、尾張(愛知県の西のほう)の織田家がありました。
今出てきた大名の名前は聞いたことありますよね?
そうなんです、今川家のまわりは、めちゃくちゃ強敵だらけなのです。
ちなみに西の松平家は、当時今川家の属国でした。
まず、この状況で簡単に攻め込まれない、ということがすごいことなのです。

理由②三角関係をまとめる

このようなとんでもないところにいたのですが、やはり、北の武田家、東の北条家は強大でした。
今川家は、長らくこの武田家、北条家とドンパチやってきたのです。
簡単に流れを説明します。
義元が大名となったとき、今川家は北条家と同盟状態でしたが、すぐに武田家と同盟します。
すると、武田家と仲が悪かった北条家が怒って、今川家と北条家の同盟が破綻します。(しかも戦争になった・・・)
そのあと、武田家と北条家が和睦。(義元ビックリ!)
義元が武田家に北条家との和睦の仲介を依頼。
しかし北条家に和睦を断られる。
そこで、義元が武田に「一緒に北条家倒そうぜ」と持ち掛ける。
武田家板挟みで困るが、しぶしぶ動く・・・
みたいなドロドロの状態だったのですが、義元の家臣・太原雪斎(たいげんせっさい)がやってくれました!
「全員親戚になればよくないですか?」
つまり、三者が互いに婚姻の関係をもつことで、同盟を結びましょう、ということです。
これは「甲相駿三国同盟」と言われ、周囲の大名に衝撃を与えました。
これも義元の外交手腕の一つと言えるでしょう。
同時に、この同盟は、武田家、北条家が今川家をライバル視し、強敵と認めていたことを意味します。

理由③上杉謙信と武田信玄を和睦させる

上杉謙信と武田信玄の名前はだれでも知っているでしょう。
そして、彼らが、長いことライバルであったこともご存じですよね?
そんな彼らが何度も戦った川中島の戦い
そのうち、第二次川中島の戦いの話です。
戦争がはじまり、両者は200日間も対陣していました。
この200日間の対陣が何を意味するか・・・
言ってしまえば疲れるんですよね・・・
武田軍は兵糧(軍隊のごはん)の調達に苦しみ、上杉軍(当時は長尾軍)の軍隊は疲れからか、規律が乱れ始めていたといいます。
そんな時に、義元は両者の和睦を仲介、戦いは終わり、撤兵しました。
もし義元が本当に愚かな大名なら、こんな大物の喧嘩の仲裁絶対できないですよね。

理由④政治もできちゃう

内政での義元の実績として次のようなものがあげられます。

検地の実施

農民の年貢の徴収は、領地運営の生命線でした。
確実に年貢を回収する、そして、一揆が起きないように、年貢を取り過ぎないようにする、これが検地の目的ですね。
ただ、大名にとって、検地を行うって大変なことです。
領地も広いし、その土地の支配者との関係性もあるので・・・
例えば、すごく仲のいい人から「お願い!検地しないでくれない?」と言われるみたいな・・・
ですから、戦国時代に検地をおこなえた大名はそうそういません。
しかし、義元はきっちり検地をし、領土の掌握に努めました。

法整備

「今川仮名目録」という分国法を成立させました。
分国法はその領内で適用される法律です。
そして、この内容も支配的な法律ではなく、訴訟に関する規定や、相続に関する規定もあったそうです。
これも東日本では初めての分国法で、当時としては、かなり先進的な思考をもっていたといえます。
他にも寄親・寄子制度を導入し、家臣団の一体性を高めたり・・・
その能力は、当時の他の大名も認めているのです。
こぶた
すごい人たちに一目置かれることも、その人が優れている証拠だよね!
ぶたちく先生
戦国時代で人気があるのは強かった人だ!ほとんどの人が、戦争の結果だけで判断されてたりするんだよ

最後に(少し長いです・・・・)

いかがでしたか?少しでも、「愚かな大名」今川義元に疑問を持ってもらえたでしょうか?
少し話がそれますが、徳川家康はなぜ駿府城を隠居後の居城にしたのでしょうか?
実は、徳川家康は幼少時代を、駿府で過ごしたのです。
あれ?徳川家康って愛知じゃないっけ?という方もいらっしゃいますよね?
少し説明すると、「徳川家康」は、改名後の名前。
もともとの名前は松平元康です。三河の大名・松平家の跡取りでした。(ちなみに幼名は「竹千代」)
当時、松平家は、今川家に従属していたので、竹千代が駿河で人質になっていたのです。
(当時、従属関係になると、属国側が裏切らないように人質を出すのは当たり前のことでした。)
ですから、徳川家康にとって、駿府は幼少を過ごした場所なんですね。
もちろん、隠居後の徳川家康が駿府にいることで、西日本の大名への睨みをきかせる、というのもあるのでしょうが・・・
それならば別の場所でもよかったのではないでしょうか?
家康からしたら駿府が故郷のようで懐かしかったのかもしれませんね。
桶狭間の戦いで今川義元は死亡しますが、その時点で今川家は滅亡したわけではありません。
その後しばらくして、武田家の侵攻により駿河を追われ、戦国大名としての今川家は消滅します。
しかし、今川義元の子・氏真(うじざね)はその後も戦国を生き続け、江戸時代をも生きました。
それも、驚くべきことに、徳川家家臣として。
氏真の評判は義元よりひどく、超ポンコツみたいに言われています・・・
でも、偉大な父・義元が死んでも、駿河を追い出されても、かつて自分に従属していた松平家の跡取りに仕えても、なお生きる。
それだけで心は十分強くないですか?
今川氏真は1615年、江戸で死亡します。
さらに今川家は絶えず、なんと明治維新を迎えるまで続いており、現在も多くの子孫の方がいるそうです。
それも氏真が生き抜いた結果だろうと思います。
2代にわたり評価の低い二人ですが、いつかこの生き様が評価される日がくれば、と願います!