東日流外三郡誌②~卑弥呼や福澤諭吉も登場、真実か創作か?~

前回ご紹介した東日流外三郡誌
義務教育で我々が学んだ歴史とは異なる点が非常にたくさんあります。
専門家からは「いや、ニセモノでしょ!」という声も当然多くありました。
しかし、この東日流外三郡誌、完全なニセモノであるかと言われると、そう言い切ることも非常に難しいのです。
特に日本史は古文書と呼ばれる文献が非常に少なく、他の文書と比較することも難しい・・・
今回は、慶応義塾大学が否定した福澤諭吉の手紙と真書派と偽書派の意見をまとめました。
最後には卑弥呼に関する面白い記述があったのでそれもまとめています。
是非最後まで読んでみて下さい!
こぶた
福澤諭吉さんとかが出てくるなら本当なんじゃないの?
ぶたちく先生
それがそういうわけでもないんだ・・・まぁ読んでみてよ!

福澤諭吉の名言は引用だった?

誰もが知っている福沢諭吉

馴染みがあるのは長らく一万円札に肖像画があるからですよね。

東日流外三郡誌に福澤諭吉がどのように関与しているのでしょうか?

福澤諭吉の手紙?

とても有名な福澤諭吉の著書「学問のすゝめ」
その冒頭は超有名な言葉で始まります。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」
おそらく聞いたことがない日本人の方が少ないのではないでしょうか?
実は、和田家文書の中には和田末吉宛の「福澤諭吉からの書簡」が入っています。
これは原本があるわけではなく、書き写したものが残っているのに過ぎません・・・
ちなみに和田末吉さんは、発見者の曽祖父にあたる人物です。
こぶた
直接の手紙があるってことは和田家は大物??

手紙の内容

気になる手紙の内容ですが、こんなことが書いてありました。
「あなたから借りている東日流外三郡誌の
『人の上に人を造らず、また、人の下に人を造らず』という一説を
『学問之進め』という私の著書に引用しました。
この書籍(東日流外三郡誌)のことは他言しないのでよろしくお願いいたします。
大阪から飛脚 明治8年6月6日 和田末吉様」
すごく現代風に書くとこんな感じです。
要はこの言葉のオリジナルは東日流外三郡誌であって、福澤諭吉ではないと・・・
さらに最後には福澤諭吉の署名と花押がありました。
花押とは、自分の署名を図案にしたもので、日本でも平安時代頃から使用されているもの。
つまり、自分が書きました!という証明のようなものです。
ぶたちく先生
いやいや・・・とんでもないこと言ってるよ・・・

引用説が本当だとした場合

もし、福澤諭吉がパクったということが本当だった場合・・・
これはとんでもない衝撃です。
「学問のすゝめ」は福澤諭吉の代表作。
明治初期に人口が3000万人程度だった日本で300万部売れた大ベストセラーです。
出版された、明治8年当時、福澤諭吉は既に天下に名の通った人間でもあります。
そんな人物が和田末吉氏から東日流外三郡誌を借り受け、引用したことを許してほしいと書いているのです。
こぶた
パクった言葉だとしたら、それを冒頭に持ってくるというのもすごいね・・・

全否定する慶應義塾大学

福澤諭吉のパクリ説を聞いた慶応義塾大学。
即座に全否定します。
慶応義塾の創設者は福澤諭吉、その名誉を傷つけるようなことはあってはなりません。
慶応義塾を否定した根拠として主なものを列挙してみました。

自著のタイトル間違えるやついないだろうが

福澤諭吉は手紙の中で、自著のタイトルを間違えています
正式な題名は「学問のすゝめ」(※当時はカタカナ)
しかし、手紙に記載されているのは「学問之進め」
ちょっと考えにくいですよね・・・
ぶたちく先生
「進め」と「すゝめ」は意味が違うから書き間違えとも考えにくいよね・・・

花押を使っている

福澤諭吉の書簡の最後にある花押。
しかし、福澤諭吉が残した約3000通ほどの手紙の中に、このような花押は一度も使われていないそうです。
さっき書いたように花押は自分で書いたことの証明のようなもの。
この時だけ花押を使っても意味がなさそうな気もしてきます。
こぶた
気分によって使ったり使わなかったりするものではないんだね!

飛脚を使っている

手紙に記載されている「大阪から飛脚」の文言。
読んで字のごとしで、この手紙を大阪から青森まで飛脚で送ったことを意味しています。
しかし、この手紙は明治8年6月6日に作成されています。
明治5年には全国ネットワークの郵便制度が既に完成しています。
飛脚がなかったとは言い切れないものの、既に衰退していました。
ぶたちく先生
このように不自然なところがすごく多いんだ・・・

前日まで東京にいる

慶應大学によると、公式の記録では、手紙を出された明治8年6月5日に福沢諭吉は東京にいます。
明治5年に鉄道が開通しているものの、あくまでも、新橋と横浜間を結ぶものにすぎません。
つまり、6月5日に東京にいた福澤諭吉が翌日に大阪にいるというのは不可能なのです。
こぶた
慶応義塾は福澤諭吉の資料もたくさんあるだろうし、あまり信ぴょう性がないよね
ぶたちく先生
こういう記載は、福澤諭吉の名誉を傷つけることになる。慶応義塾としても許せないだろうね・・・

偽書と言われる理由

東日流外三郡誌の偽書説。
もう今までの部分でも疑いは止まらないかと思いますが・・・
さらに偽書と言われる根拠について言及してみたいと思います。

最近の言葉が使われている

この東日流外三郡誌、書かれた当時にはまだ使われていなかった言葉が使われています
例えば「光年」
距離の単位として使われるこの言葉は1851年のドイツ人の著書が始まりとされています。
一般的に使われたのはもっと後のことです。
また、「冥王星」という言葉が出てきます。
冥王星は太陽系の準惑星ですが、発見は1930年のことです。
光年という言葉も冥王星という言葉も東日流外三郡誌が作られたとされる江戸時代には存在しない言葉なのです。
こぶた
これは弁解できないかもね・・・

和田家宅の不思議

発見者の和田氏が死去した後、和田家宅の調査がされました。
そもそも、和田家文書は、戦後すぐに和田家宅の天井裏から落ちてきたことにより見つかったとされています。
しかし、実際の天井裏は非常に狭く、膨大な文書をしまうスペースはありませんでした。
さらに、和田家宅は1941年の建築
古文書は天井裏に隠れているということは考えにくいですね。
ぶたちく先生
発見した状況が非常に疑わしいんだ・・・

真書派の反論

私たちが正史として習う日本史も時々修正が入りますよね。
例えば鎌倉幕府が開かれた年は1192年から1185年に変わりました。
真書であることの証明は、偽書の証明以上に難しいと思います。
真書派にもたくさん主張がありますが、おそらく一番説得力を感じたのは和田家文書が膨大であるという点です。
偽書派の主張の一つに、ほとんどの書類の筆跡が同じである、ということがあります。
そして、その筆跡が発見した和田氏と同じなのです。
つまり、発見者という和田氏の自作のものであるということですね。
しかし、和田家文書は全部で1000巻を超える分量とのこと。
これをたった一人で書ききれるのかということです。
一人で書けるわけがないから偽書ではない、という主張ですね。
こぶた
僕はどっちかというと偽書だと思っちゃうな
ぶたちく先生
まぁ大多数の人が同じ意見だよ・・・でも文書そのものの真偽と内容の真偽はこれまた別の話だからね!

不思議の国邪馬台国

少し話はそれますが、東日流外三郡誌には個人的に面白い話があります。
それは邪馬台国の話です。
邪馬台国も誰もが知る名前ですが、日本の文献には邪馬台国という呼称は一切登場しません
それほど不思議な国なのです。
しかし、東日流外三郡誌には邪馬台国の記述があったのです。

王は卑弥呼ではない

東日流外三郡誌によれば、邪馬台国は現在の奈良県にありました。
その中には邪馬壱国、邪馬弐国、邪馬参国があります。
さらに、邪馬台国を統治するのは安日彦(あびひこ)と長髄彦(ながすねひこ)の兄弟だったとのことです。
長髄彦は日本書紀にも登場します。
しかし、日本書紀に記載のある長髄彦がいたのは神武天皇が居た時代なので、3世紀にあった邪馬台国とは大きく時代が違います。
また、邪馬台国の女王は卑弥呼と学びますので、ここも違いますよね。
こぶた
邪馬参国・・・まじで・・・?

卑弥呼はどこに

私たちは邪馬台国の女王が卑弥呼と学習しましたよね。
では卑弥呼はどこにいったのでしょう?
東日流外三郡誌によれば、卑弥呼は九州の女王だったそうです。
邪馬台国と卑弥呼は何の関係もありません。
詳細は不明ですが、卑弥呼はアリアン族の巫女で日向族を支配していたとのこと。
日向族は現在の宮崎県にいた神武天皇の一族ですが、もともとは台湾の原住民が北上してきたのがきっかけとのことです。
また、卑弥呼は3姉妹でした。
火を操る「ヒミコ」、水を操る「ミミコ」、大地を操る「チミコ」の三姉妹だったそうです。
こぶた
ウソだ!それはないでしょうよ・・・
ぶたちく先生
邪馬壱国くらいからかなり怪しいよね・・・

最後に

いかがでしたか?
東日流外三郡誌は現代ではほぼ偽書で間違いないとされています。
発見者の和田氏は真書であると主張したまま、死去しました。
東日流外三郡誌は青森県では正式な資料として扱われていたこともあります。
自分の先祖や自分の住む地域がもしすごかったら・・・という気持ちもわからなくはありません。
とはいえ、完全な偽書という証明も難しいのが実情です。
なぜなら和田家文書は写本に過ぎないという主張だからです。
誤字も書き写すときに間違えた、書き写す際に話を盛ってしまった・・・
こんなことでいくらでもニセモノじゃないと言えてしまうからです。
歴史上の出来事が正しいことを証明することがいかに難しいことなのかを感じました。