シモ・ヘイへ~フィンランドのために戦った凄腕の狙撃手~

ベストセラーとなった「同志少女よ、敵を撃て」
これはソ連の女性狙撃手が主人公の物語です。
実際にソ連にはリュミドラ・パヴリチェンコという女性スナイパーが実在し、第二次世界大戦で活躍しました。
他にも狙撃兵として名を馳せた人物はたくさんいます。
そんな中、今回ご紹介するのは圧倒的な戦果を誇るフィンランドの軍人「シモ・ヘイへ」
「白い死神」と恐れられたヘイへはどんな功績を残したのでしょうか?
こぶた
フィンランドってあまりイメージがない国だけど、そんなに有名なの?
ぶたちく先生
戦果もすごいし、その性格も人から愛される理由かもしれない。まずはどんな人物かを話そう

どんな人物?

スポーツ万能な猟師の子

シモ・ヘイヘは1905年12月17日、フィンランドのラウトヤルヴィで誕生しました。
ラウトヤルヴィはフィンランド南東部に位置し、現在はロシアとの国境にある町です。
ヘイヘが生まれた家は猟師と農業を生業としていました。
そのため、子供の頃から銃を扱っており、様々な狙撃大会に出場しては優勝し、家の中にはトロフィーが並べられていたそうです。
スポーツも万能で、士官学校時代はキャッチャーとして有名だったり、1940年に開催予定だった札幌オリンピックではスキー選手として出場が内定していたそうです。
日中戦争の影響で開催されなかったのでオリンピック出場はかないませんでしたが、フィンランドはスキーの強豪国。
スキーでフィンランド代表になるのは並大抵の腕ではありません。

兵役義務の到来

17歳頃、ヘイへは白衛軍という民兵組織に入ります。
白衛軍は反ソ連を掲げる地域的な軍事団体です。
農業の合間に仲間たちが休んでいても、ヘイへは一人、空砲で狙撃の練習を行っていたといいます。
20歳になると15か月の兵役義務でフィンランド陸軍に入隊。主に自転車大隊で過ごします。
兵役義務が満了したあとは予備役となり、狙撃訓練等から離れることになります。
こぶた
戦争がなかったらスキーでも名を残したかもしれないね!!
ぶたちく先生
そうだね!ではヘイヘが軍人として活躍した第二次世界大戦に進もう

冬戦争

第二次世界大戦が勃発

1939年9月1日、ナチスドイツがポーランドに侵攻して始まった第二次世界大戦。
同年、フィンランドはソ連から領土の割譲等を要求されますが、これを拒否。
11月30日ソ連軍はフィンランドへの侵攻を開始します。
地図をみるとわかりますが、南北に長い領土を有するフィンランドはその東側が全てソ連に面しているのです。
戦力で圧倒するソ連に対し、長い国境線を守らなければならないフィンランドは圧倒的苦戦が予想されました。

ヘイへの招集・コッラの戦い

ヘイへは予備役兵長として招集され、フィンランド陸軍の第12師団第34連隊第6中隊に配属されます。
任務はコッラ川周辺の防衛任務でした。
ヘイへが所属した中隊の指揮官はユーティライネン中尉
ユーティライネンはヘイへの射撃成績を見て、特別な狙撃兵の任務を与えます。
そしてソ連侵攻により、コッラの戦いが幕を開けます。
大きな戦力差があり、ヘイへのいた陣地はわずか32人で4000人のソ連兵と戦わなければなりませんでした。
ソ連はヘイへの守る丘に突撃を開始します。
ヘイへは雪に紛れるため、真っ白のスーツを着用し敵を狙撃します。
マイナス40度を超える極寒の中、ヘイへは狙撃の実力を遺憾なく発揮。
300メートル先にいる敵の頭を確実に打ち抜き、多い時は1日で40人を撃ちました

ヘイへの特徴

観測手をつけない

少し話はそれますが、ヘイへは普通の狙撃兵とは少し変わったところがありました。
一般的に狙撃兵は観測手と呼ばれる人と行動します。
狙撃は距離を正確に測り、風の向きや強さを考慮した上で行います。
そのため、観測手はターゲットまでの距離や風の向き、風速を狙撃手に伝えるのです。
しかし、ヘイへは観測手を同行させませんでした。
あくまで、長年猟で培った経験と勘を頼りに戦っていたのです。

スコープもいらない

ヘイへが使用していたのは「モシン・ナガンM28」という狙撃銃です。
この銃はスコープの取り付けも可能でしたが利用しませんでした。
身長155センチ程度のヘイへに対し、120センチあるこの銃。
これ以上銃が重くなることを避けたのです。
慣れた姿勢で狙撃することを優先し自分のスタイルを貫きました。

相手に見つからないようにする

スコープを取り付けない理由はもう一つありました。
スコープに反射する光で敵に位置を知られることを避けたのです。
他にも、自分の白い吐息で場所を知られることを避けるため、雪を口に含んでいたとも言われています。
ただでさえ身長155センチと小柄なヘイへの特徴を活かした作戦ですね。

圧倒的な狙撃力

入隊前、カモ猟で培かわれた腕は確かでした。
150メートル先の標的に1分間に16回命中させるという恐ろしい速さと正確さ。
300メートル以内であればほぼ確実に頭部を狙撃できる。
最長450メートルでも狙撃できました。
ヘイへは当たるときにしか撃たないため、的中率はほぼ100%でした。

戦争の終結

ヘイへは実力を発揮し、自分が守る丘に敵を近づかせません。
いつしか、ヘイへが守る丘はソ連兵に「殺戮の丘」と呼ばれるようになるのです。
しかし、ヘイへは終戦間際に左顎を撃ち抜かれ、意識不明の重体となります。
1940年3月冬戦争は終わりを迎えます。
コッラで戦った第12師団は大損害を受けましたが、コッラをソ連兵に突破させませんでした。
後にコッラの戦いは「コッラ川の奇跡」と呼ばれるようになります。
さらにフィンランドは冬戦争に負けますが、少なくとも圧倒的劣勢のなかで、フィンランドは独立を守ることができたのです。
ヘイへは戦後に意識を取り戻します。
ヘイへはわずか100日の間に狙撃だけで542人を撃ちました
普通のスナイパーの戦果が十数人と言われるなか、異常ともいえる戦果です。
こぶた
たった100日間で542人も・・・ソ連にもスナイパーはいたんでしょ?
ぶたちく先生
ソ連にもスナイパーはいたが、シモ・ヘイへに撃たれたんだ

最後に

いかがでしたか?
ヘイへは戦後、第一級自由十字褒章とコッラー十字章を得て5階級特進します。
戦死者でも2階級特進なのに、これもすごい昇進です。
ヘイへの功績がうかがわれますね。
終戦後は戦線には復帰せずそのまま退役。
寡黙で控え目な性格のヘイへは、死ぬまで自分の功績をひけらかすことはなかったそうです。
狙撃の秘訣を聞かれ
「練習だ」
狙撃の功績について聞かれ
「義務を果たしただけだ」
その後再び猟師兼農家の生活に戻ります。
2002年、96歳で亡くなりました
祖国のために奮闘したシモ・ヘイへ。
控え目なヘイへが中央に写っている写真はほとんどありませんが、その功績は今でも多くのフィンランド人に尊敬されています。