交差点の支配者・信号機。
どんなに大きな交差点でも色を使い分けて、世界中で安全を守っています。
信号機の見方は小さな子供が最初に教わる交通ルールの一つでしょう。
自動車、自転車、歩行者・・・みんなが信号機を守ることで交通安全は保たれているといっても過言ではありません。
今回は信号機の歴史やあまり知られていない信号機の機能について取り上げてみました。
当たり前にあるから、みんな深く考えることもないだろうね・・・
そうだね!でもどんなものでも誰かが製造したり管理しているものなんだよ!
目次
信号機のキホン
まずは信号機のことから勉強しましょう。
そういえば信号機って誰が管理しているのでしょうか?
信号機は誰が管理しているのか
現在、日本全国には約20万機の信号機があります。(警察庁調べ)
この信号機を設置・管理しているのは原則として都道府県の公安委員会。
公安委員会は警察を管理しているので、事実上信号機のことも警察に連絡すれば大丈夫です。
例えば、強風で信号機が折れた、風で回転しちゃった等もとりあえず110番通報しましょう。
強風が吹くと、信号機がクルクル回ったり、支柱が折れることもあるんだって!
信号機新設基準
信号機を新しく設置するのには細かい基準が定められています。
基本的には安全の確保がされたりすることです。
面白いのは「1時間あたり300台以上の自動車等が通る」という基準。
実は普段信号を守る人でも12秒間以上車が来ないと信号無視をする傾向にあるそうです。
信号無視が当たり前になるような信号があると、危険な信号まで無視する危険性があるため、交通量が少ない交差点には信号を設置しない、とのことです。
結果的に
12秒間で1台
1分間で5台
1時間で300台
という計算になったわけですね。
他にも信号待ちの車がいてもすれ違うことができるなど、信号機の設置の基準は結構細かく決められているよ!
信号機メーカー
信号機はもちろん企業が作っています。
法律で定められた規格に従い、日々改良が重ねられています。
有名な信号機メーカーは日本信号株式会社という会社。
ザ・信号機メーカーという感じの社名です。
昭和5年に東京の日本橋交差点、大阪の桜橋交差点などに信号を設置して以来、たくさんの信号機を作っています。
日本の信号機メーカーは他にもあり、日本で設置するものだけでなく、海外に設置する信号機も製造・輸出しています。
ちなみに信号機は本体だけで100万円以上します。
設置費用等を考えると1台あたり何百万円もかかるのです。
これらが税金で拠出されるのは、悲しい事故が起きないように必要な場所につけられているもの。
短い横断歩道で「こんなのすぐに渡れちゃうじゃん!」って思っても、ちゃんとルールを守りましょう。
矢印信号がついているとか、高性能なものになると設置に500万円以上かかることもあるそうだよ!
ちゃんと任意保険に入らないとだめだね・・・
信号機の歴史
信号機はいつから使われているのでしょうか?
少なくとも自動車が普及するまではいらなかったはずですが・・・
日本で初めての信号機
日本で初めての信号機。
それは大正8年(1919年)までさかのぼります。
日本に初めて自動車が持ち込まれたのは明治31年(1898年)のこと。
自動車が来てから約20年のラグがありました。
試験設置されたのは東京・上野広小路交差点。
その信号は「信号標板」と呼ばれるものでした。
この信号標板、今の信号機のように電気は使われておりません。
「進め」と「止れ」の二つの板を手動でクルクル切り替える、というものです。
この頃、基本的に道路交通は警察官が挙手で誘導していました。
そのため、この信号標板は警察官の補助的なものとして使用されたのです。
信号の歴史はこうして幕をあけます。
人の手は使うけど、一番簡単に思いつく方法ではあるよね!
自動交通整理信号機の登場
衝撃の3色信号
人力だった信号も電気式のものが登場します。
昭和5年(1930年)のことです。
それは日比谷の交差点の中央に登場しました。
アメリカから輸入されてきたその信号機は縦に上から赤・黄・緑の3つの色。
しかし、日本人は信号機を見たことがないので意味がわかりません。
そのため、それぞれの上から「トマレ」「チウイ」「ススメ」の文字が記載されました。
せっかく電気の信号が来ても、皆がわからないと意味ないからね・・・
電気式信号機普及の理由
信号標板が実用開始されたのは大正11年(1922年)のこと。
つまり、信号標板から電気式信号機の普及まではあまり時間がかからなかったことになります。
それの理由の一つは自動車が急激に普及したことにあります。
自動車の急激な普及に少し突っ込むと、大正12年(1923年)の関東大震災が影響しています。
関東大震災での被災で、鉄道や路面電車は無力化してしまいます。
その際に輸送業務を代わりに果たしたのが自動車でした。
その時に日本人は自動車の重要性を再認識し、自動車が急激に普及したのです。
自動車が急増すると警察官も交通整理ばかりで大変。
こうして、電気式信号は交通標板からあまり間を空けずに実用化されたのです。
関東大震災で被災した鉄道は1年以上復旧しなかったものも多かったんだ!
空襲警報
順調に普及する信号機ですが、試練が訪れます。
それは第二次世界大戦です。
みなさんは「灯火管制」というものを御存じでしょうか。
灯火管制は、戦時中に敵が自国の状況を把握しにくいように、また空襲等の標的にならないように、ローソクや電灯等の照明の使用を制限する制度です。
電灯に覆いをして食事するドラマなんかを見たことがあるかもしれません。
信号機も例外ではなく、空襲警報時には減光して、交通整理をしました。
また、太平洋戦争開始後しばらくすると、信号は空襲警報を告げる用途でも用いられました。
空襲警報が発令されると、信号は赤色を点滅させて警報を知らせたのだそうです。
この役割のため、信号は金属調達のための犠牲にはなりませんでした。
しかし、結果的に多くの信号機が空襲被害を受けることになりました。
信号機の役割が交通整理だけではなかった時代があったんだ!
戦後
戦後、信号はついに「信号機」と呼ばれるようになります。
それまでは、一般的に「交通整理器」などの名称が用いられていました。
戦後すぐは信号機の復旧が追い付かず、しばらくは警察官の手信号などで交通整理をしていました。
1947年になると、法律で信号機の色の順番、大きさが法定されます。
その後信号機は各地で復旧。
その後、信号機は様々な改良を続けられながら、現在に至ります。
今は本当にスタイリッシュで高性能な信号機ができてきたよね!
次回は信号機の豆知識と機能についてお話しするよ!
参考HP:JAFHP