日本で武士などが行ってきた「切腹」という行為。
これが名誉ある武士の死に様として認識され始めたのは、戦国時代の後期からだそうです。
しかし、切腹したからといってすぐに絶命するわけではありません。
そのために行われるのが「介錯」。
これは、切腹してから絶命するまでの苦しい時間が少しでも短くなるように、刀で首を斬り、早く絶命させるというものです。
ただ、介錯は非常に難しかったそうで、下手な介錯人であれば何度も首に刀を振ってもちゃんと斬れない・・・
結果的に、本人が余計に苦しむという本末転倒な笑えない話もあります。
そのため、介錯人には剣の達人が選ばれたそうです。
今回、取り上げるのは18世紀を生きたフランスの死刑執行人「シャルル・アンリ・サンソン」です。
ギロチンが発明されるまでは斬首も含めたあらゆる刑罰を自らの手で執行していたサンソン。
フランス革命、恐怖政治の時代に死刑執行人として生涯で2000人以上の死刑を執行しました。
まさしく死刑執行のプロともいえるでしょう。
一見とても怖く見えるこのサンソンですが、どんな人物だったのでしょうか。
※本記事で特に断りがない場合、「サンソン」との表記はサンソン家4代目のシャルル・アンリ・サンソンのことを言います。

死刑執行人・・・そんな職業が・・・

世界では決して珍しくはないよ!ちなみに日本の刑務官の方は死刑執行人とは言わないよ!
目次
サンソン家「ムッシュ・ド・パリ」
まず最初にサンソンの生まれた家と死刑執行人についてお話ししましょう。
ムッシュ・ド・パリ
フランスでは各地に死刑執行人を職業とする者がいました。
そして、フランス全土の処刑人の頭領の称号が「ムッシュ・ド・パリ」
サンソン家は17世紀頃から代々「ムッシュ・ド・パリ」を継ぐ家系だったのです。
とはいえ、ムッシュ・ド・パリは決して名誉ある称号ではありませんでした。
むしろ死刑執行人は社会的に底辺にある職とされ、人々から軽蔑されるだけでなく、「死神」とまで呼ばれ嫌われる職業だったのです。
一族の子供たちも、死刑執行人の子としていじめにあったり、学校が受け入れを拒否するなど、まともな教育を受けることすらできませんでした。
そのような事情もあり、一族の子供も処刑人になるほか道がなく、とてもつらい宿命を背負っていました。
副業が医者
サンソン家は医者の家系でもあり、副業で医療行為を行っていました。
副業と書きましたが、医者としての技術は決して低くありませんでした。
それは、死刑執行人の死体の保管があったことが影響しています。
サンソン家は死体の解剖等で、人間の体がどの程度であれば後遺症が残らないか、命を落とすのか・・・
そのようなことも徹底的に研究していたからです。
これは、むち打ちなどの刑罰で、罪人に後遺症が残らないようにするためでもあったと言われています。
そのため、実際に当時の大学等で教わる医療技術とは別の、サンソン家独自の医療技術を確立していました。
もちろん、呪術などの決してオカルト的なものではなく、非常に合理的で現実的な医療技術でした。
それだけでなく、そもそも身分的に辛い立場にあったサンソンは、貴賤などでの分け隔てなく、様々な立場の人を治療したそうです。

称号だけみたらすごく尊敬されてそうなのにね・・・

人々がやりたがらない仕事って軽蔑されがちだからね・・・誰もしたがらない仕事ほど大事だと思うんだけど・・・
第4代当主として
シャルル・アンリ・サンソンはサンソン家の第4代目当主として、ムッシュ・ド・パリを引き継ぎます。
1739年に生まれたサンソンも例に漏れず、学校には行けませんでした。
短期間通った時期もありましたが、学校ではいじめられたり、転校先を探そうにも受け入れてくれる学校もありませんでした。
そんな中、1754年、第三代当主であり、サンソンの父であった、ジャン・バチスト・サンソンが病を患い、半身不随となります。
そのため、サンソンは弱冠15歳にして当主代理として死刑執行人の職に就きます。
最初の死刑執行は16歳の時でした。
罪状は愛人と共謀して夫を殺害したこと。
受刑者は女性で、絞首刑に処すというものでした。
サンソンはこの絞首刑に何度も失敗しますが、5回目か6回目にようやく成功します。
その後、斬首刑や車裂きの刑も執り行っていき、どんどん腕をあげ、一流の死刑執行人として、成長していくのです。

16歳の子に死刑を執行させるとは・・・辛いね・・・

本当にね・・・
執行した著名人たち
サンソンが生きた18世紀末頃にはフランス革命や恐怖政治が起きました。
そのため、サンソンは著名な人物の死刑にも関わっています。
ルイ16世
ルイ16世は、ルイ14世及び15世の時代から膨らみ続けた財政難に苦しんだ国王でした。
サンソンも年俸の支払いの催促の為にルイ16世に謁見した記録が残っています。
ルイ16世については「無能な王」、「優しい王」との様々な評価がされています。
しかし、少なくともサンソンは王政支持派であり、ルイ16世を敬愛していました。
死刑執行人という立場にありながらも、死刑制度や残虐な刑罰には反対していたサンソン。
実は、ルイ16世になってから、残虐な処刑は少なくなっていました。
例えば、「車裂きの刑」という刑罰があります。
これは処刑台の上で体中を鉄の棒で砕いた後、馬車の車輪の上で仰向けに寝かせて死ぬまで放置する、という残酷なものでした。
しかし、ルイ16世になってからは車裂きの刑そのものが減りました。
どうしても車裂きの刑を執行しなければならない場合も、ルイ16世は死刑命令書の特記事項に「密に絞殺することを許可する」とするなど、罪人の苦しみを軽減するように努めていた記録があります。
また、死刑による苦しみの軽減のため開発されたギロチンの改良を指示したともいわれています。
そんなルイ16世はフランス革命で死刑判決を受け、皮肉なことにギロチンで処刑されます。
サンソンは、禁じられていたミサを処刑前にルイ16世に許すなど、できるだけの配慮を行います。
最後は、ルイ16世に対して自ら死刑を執行しました。
マリーアントワネット
マリーアントワネットの名前を知らない人はいないと言えるぐらいに有名ですよね。
マリーアントワネットはルイ16世の妻です。
ルイ16世の死刑執行後、マリーアントワネットは幽閉されていましたが、ついに死刑判決を受けることになります。
この死刑もサンソンが執行を行いました。
マリーアントワネットは処刑台に上がるときにサンソンの足を踏み、
「ごめんあそばせ、わざとではございませんのよ」
と話したのが最後の言葉だったとされています。
ロベスピエール
ロベスピエールはフランス革命期の有力な政治家です。
ルイ16世の処刑を主導した人物でもあります。
揺れ続けるフランスで、思想に反対する者を徹底的に弾圧する恐怖政治を展開します。
粛清や処刑を大量に行ったため、サンソンもこの時期に大量の死刑の執行を行っています。
そんなロベスピエールの容赦ない弾圧に反発が高まり、最後には「独裁の罪」で処刑されてしまいます。
この処刑もサンソンが執行しています。

超有名人ばかりだけど、やっぱり尊敬するルイ16世の処刑を考えると辛いね・・・

フランス革命期は、サンソンもあまりに死刑が多すぎて、精神的に参っていたらしいよ・・・
本人の性格
サンソンは生涯で2700から3000人程度の死刑を執行したと言われています。
しかし先ほど述べた通り、サンソンは死刑廃止論者でもあり、ルイ16世を敬愛する王党派でもありました。
また、自分が刑罰を執行した者の治療も行うなど、決して人間味を失ってはいませんでした。
特に車裂きの刑のときも、ルイ16世の指示がなくても、自主的にこっそり絞殺していたこともあったそうです。
刑による苦しみを少しでも軽減しようとしていたのですね・・・
特に、当時は現代と違い、真実が曖昧で恣意的に行われる裁判も少なくありませんでした。
職業を全うする使命感と、受刑者への慈悲の気持ちで常に揺れ動いていたのかもしれません。
そんなサンソンも、唯一かつての恋人の処刑だけは自ら執行することができませんでした。
それは、あまりに泣き叫んで助命を乞う彼女に、いつものように冷静になることができなかったのです。
サンソンは自分の息子にバトンタッチし、後に「みんながこんな風に懇願すれば、民衆も事の大きさに気付くだろう」と書き残しています。

自分の気持ちを押し殺して生きたんだね・・・

サンソンは生涯死刑の廃止を訴え続けるんだ。サンソン家の子孫たちのことも頭にあったんだろう
最後に
サンソンは1795年にムッシュ・ド・パリを息子に引き継ぎます。
そして1806年、ナポレオン1世に謁見した後、この世を去りました。
サンソン家はその後第6代までムッシュ・ド・パリを引き継ぎます。
フランスのムッシュ・ド・パリは1981年にフランスで死刑が廃止されるまで存続しました。
ちなみに最後までギロチンを使い続けています。
サンソンは小さなころから死刑執行人という立場に苦しみ、死刑に反対し続けながらも職務を全うしました。
その重圧や精神的ダメージは計り知れません。
死刑への賛否は別として、サンソン、切腹の介錯、死刑を執行する刑務官・・・職業とは言え、死刑で一番苦しむのは彼らなのかもしれません。