日本史の授業で何となく引っかかる言葉はありませんでしたか?
私にはありました。
「薩英戦争」です。
薩英戦争ね・・・
薩は薩摩の薩で英はイギリスの英ね・・・
薩摩は鹿児島だから・・・
えーと、鹿児島とイギリスの戦争か!
すごくないですか?
そうなんです。かつて3日間だけですが、薩摩藩とイギリスは戦争をしました。
当時は藩制ですので、鹿児島県とイギリスが戦ったというのとは意味が全く違いますが、冷静に考えるとすごいですよね。
でもなぜ薩摩藩は単独でイギリスと戦争することになったのでしょうか?
薩摩とイギリス・・・確かに戦争になったきっかけは何だったんだろう?
誰もが聞いたことがある「ある事件」が発端になったんだ!
生麦事件
「生麦事件」・・・名前は聞いたことありますよね?
事件の概要はこうです。
1862年、横浜港付近の生麦村で当時の薩摩藩主・島津茂久の父・島津久光の行列が江戸から京都に向かって進んでいました。
薩摩藩主のお父さんか・・・ではなく、島津久光は当時の薩摩藩の最高権力者です。
そこへ騎馬状態のイギリス人が4人現れます。
このイギリス人らは、行列の見物に来ただの、乗馬を楽しんでいただの諸説あるのですが、行列の前に立ちはだかることになります。
行列の先頭にいた薩摩藩士は、下馬して道を譲るように言います。
しかし、イギリス人は行列の中を逆行して進み、なんと島津久光の乗る駕籠付近まで来てしまいます。
いきり立つ薩摩藩士・・・イギリス人らは雰囲気的にやばいと思い、引き返そうとしました。しかし、その動きが余計に薩摩藩士の目に無遠慮に映り、薩摩藩士はイギリス人らに斬りかかりました。
イギリス人4名のうち、2名が負傷し、1名は死亡しました。
生麦事件は聞いたことあるよ!でも行列の前に出るなんて・・・僕ならダメってわかってなくても出れないよ・・・
生麦事件についてはいろんな憶測はあるけど、薩摩藩もイギリスもメンツをつぶされた形になったんだ!
開戦まで
生麦事件当時、日本は不平等条約な条約をイギリスと締結しており、日本居留地のイギリス人は治外法権で保護されていました。
治外法権とは、特定の外国人を日本が裁くことができないということ。
つまり、当時居留地だった横浜では、日本人はイギリス人を裁くことができなかったのです。
薩摩藩士がイギリス人を斬ったことは条約違反になってしまいます。
イギリスは、生麦事件の賠償金として、幕府から10万ポンドを受け取ります。
さらにイギリスは薩摩藩と交渉するため、横浜港を出港、鹿児島湾に到着します。
イギリスの要求は「生麦事件の犯人の逮捕、処罰及び2万5千ポンドの生麦事件の遺族への補償」です。
しかし、薩摩藩はこれを拒否。
イギリスは、要求をのまなければ、薩摩藩に武力行使に出る旨通告しますが、薩摩藩は受け入れませんでした。
不平等条約はこういうところで影響してくるんだね。
その通り!治外法権と聞いてもピンとこないが、それはものすごく屈辱的なことだったんだ!
開戦
イギリスは、さらに薩摩を追い詰めようとし、薩摩藩の船3隻を掠奪します。
そしてついに薩摩藩が動きます。
鹿児島湾には砲台がたくさんあったのですが、薩摩藩がイギリス旗艦「ユーライアス」に砲撃を開始したのです。
鹿児島湾岸の砲台もそれに呼応するかのように、イギリス艦に砲撃を開始。
イギリスも負けじと砲台への艦砲射撃を開始します。薩英戦争の火ぶたが切って落とされたのです。
薩摩の砲台の性能はイギリスの艦砲射撃よりも性能が劣っていましたが、イギリス艦隊に猛反撃します。
砲撃戦は3日間続きました。
最終的に、イギリスは燃料・弾薬等の消耗もあり、撤退し、横浜港に戻ります。
イギリス艦隊は1隻が大破、2隻が中破、60人以上が死傷するなど、薩摩藩は奮戦しました。
しかし、一方で薩摩藩の城下町の10分の1が火災で焼失するという、甚大な被害を受けたのです。
両国は互いに深い傷を負わせて、戦闘は終了しました。
一応は追い返すことに成功したってことかな?
確かにこの戦闘ではね・・・でも薩英戦争のすごさはその戦後の交渉なんだ!
戦後処理
戦争から約2か月。
薩摩とイギリスは和睦交渉をはじめます。
第1回交渉で、薩摩がイギリスが3隻の船を掠奪したから戦闘になったと主張すれば、イギリスは生麦事件の追及をし、和睦はならず。
第2回交渉でも互いに一歩もひかず・・・
このままでは再度戦闘が起きる可能性があった3回目の交渉でした。
幕府は薩摩藩に妥協するよう促すと、薩摩は賠償に応じることにしました。しかし、たくましい薩摩藩はただで起き上がることをしません。
なんと
「賠償金を支払うから、軍艦を売ってくれ!あと、操船技術も教えて欲しい!」
といいます。
イギリス人は賠償金の支払いに喜びながらも、驚きました。
通常、和睦交渉で相手の兵器を譲ってくれなんて言わないからです。
しかしイギリスは「軍艦の譲渡はさすがにできないが、購入を斡旋することならできる」と応じたのです。
この一件から、イギリスは薩摩に一目置くようになり、薩摩もイギリスの軍事力を認め、なんと友好な関係を築いていきます。
そして、このことは後の明治維新に非常に大きな影響を与えたと言えるでしょう。
この状態から仲良くなるなんて・・・薩摩藩もイギリスもなんか器が大きいね!
お互いの利害が一致したともとれるけどね・・・でも薩摩藩の要求はなかなか言えることではないと思うんだ!
最後に
江戸幕府の始まりを決定づけた関ヶ原の戦いでは、島津家は敗戦した西軍側で奮戦しました。
しかし、最後は、敵中を突破し、前進して退却するという方法をとり、その勇猛さで徳川家康を脱帽させたといいます。
そして同じ江戸時代の末期、今度はイギリスを相手に奮戦しました。
さらに戦後、素直に相手の強さを認めることで、敵国であったイギリスは薩摩藩の魅力に引き付けられました。
太古の昔から、薩摩人はその勇猛さから「薩摩隼人」と呼ばれているそうです。薩摩の人々にはいつの時代にも当たり前に引き継がれているものなのかもしれませんね。