明治5年に日本中を大混乱させた事件が起きました。
それは太陽暦の導入です。
現代の人々は、「こよみ」ときいてもピンとこないかもしれませんが、日本は1000年以上に渡り、「太陽太陰暦」というものを使ってきました。
それが明治5年に「太陽暦」に改められたのですが、いったいどのように混乱したのでしょうか?
太陽太陰暦って旧暦のことだよね?そもそも何が違うの?
それではまず太陽太陰暦から勉強しよう
目次
太陽太陰暦とは
今は太陽暦を採用していることは広く知られていますが、太陽太陰暦とはどのようなものでしょうか。
太陽太陰暦は、月の満ち欠けを利用しながら、地球の公転周期とのずれを調整する暦です。
まず、月の満ち欠けは新月から満月となり、また新月に戻るまでが約29.5日です。それを1か月とするために、29日と30日のつきを交互に配置します。それが12か月とすることで354日を1年間とします。
でもこれっておかしいですよね?だって地球の公転周期である1年は365日なんですから・・・つまり毎年11日ずつのずれが生じるわけです。
太陽太陰暦は、このずれを解決するために「閏月(うるうづき)」を利用しました。どういうことかというと、毎年生じる11日のずれも3年で約1か月分になりますよね。定期的に「閏月」を挿入し、1年間を13か月としたのです。
さらに古代の天文学者「メトン」は地球が太陽を19周する日数と、月の満ち欠けが235周する日数がほぼ等しいことに気づき、19年のうちに7回の閏月を入れるとよい、とされていました。
ちなみに最後の閏月は明治3年。つまり、明治3年は1年が13か月だった最後の年なのです。
1年間が13か月だったなんて考えられない・・・13月があったの?
実際は閏〇〇月と言ったんだ。例えば明治3年は10月の後に「閏10月」があったんだ。
なぜ太陽暦を導入したのか
日本は、開国以来、西洋との外交や交易が活発になりました。
しかし、西洋はすでに太陽暦を利用していたので、その点で非常に不便だったのですね。
当時は、幕末から明治にかけては、西洋列強に追いつけ、追い越せという時代、暦だって西洋のものを取り入れなければならない、という風潮がありました。
その結果、明治政府は、太陽暦の採用を決めたのです。
そして大混乱へ
太陽太陰暦は明治5年12月2日で終了し、その翌日は、太陽暦(グレゴリオ暦)明治6年1月1日とされました。
正解としては、12月2日に「よいお年を」と言って、その次の日は「あけましておめでとうございます」なのです。
「正月気分にならねぇよ!」というぐらいならいいのですが、現実的な問題が発生しました。
①急すぎる改暦
改暦は明治5年12月2日でしたが、改暦が公布されたのは、同じ年の11月9日でした。
急すぎるやろうが・・・
一番困ったのはカレンダー屋さんです。
もう来年のカレンダー作ってたのに、作り直しになり、大損害を被ったそうです。
②給料は出ない
改暦が公布されたとき、庶民の間では「2日しかないのに給料がもらえる!」と大はしゃぎだったそうです。
しかし、慌てて政府はそれを否定し、少なくとも役人の給料は支払われませんでした。
結局12月は2日しかなかったわけですので、損したかどうかでいうと微妙ですが・・・
なんか今でも起きそうな混乱ですよね!
③支払期限が急に来る
当時、家賃は年末払いが主流でした。
つまり、12月の給料で支払えばいいやなどとおもっていたものが、12月の給料がなくなり、さらに期限が急に来るという悲劇が起こったのです。
この問題はあちこちで発生し、もめごとになりました。
④一日なのに月が見える
太陽太陰暦では、月を基準にしているので、毎月1日が新月で、15日は満月でした。
しかし、現在も十五夜のお月見は必ずしも15日ではないですよね。
だから、1日なのに月があったり、十五夜なのに新月だったり・・・
悪いことではないのですが、当時の人には衝撃的だったようです。
⑤日本語や年中行事とのずれ
正月は「迎春」、梅雨は「五月雨」と言いますが、正月に春を迎えることはなくなり、梅雨は6月頃になりました。
逆に七夕は梅雨真っただ中に迎えることになり、旧暦8月に旬を迎えることから「はっさく」と名付けられた果物は、9月に旬を迎えることになりました。
季節を表す言葉がずれてしまうので、日常生活でも違和感がかなりあったのではないでしょうか。
来月から暦かえまーす!はさすがに急すぎるよ・・・
明治維新の少し後の出来事だからね。当時の政府も市民も大きな変化に慣れすぎてたのかもしれないね
明治政府の陰謀か
1000年続いた暦をなぜここまで早急に変えたのか。
明治政府の陰謀だった、という説もあります。
ヨーロッパと大陸続きの中国では1911年まで太陰太陽暦を採用していました。それなのに、なぜ日本は急に太陽暦を採用したのでしょう。
それは・・・給料を払いたくなかったという説があります。
実は太陽暦が始まった明治6年は閏月が入り、13か月になる予定でした。
急いで太陽暦を採用することにより、明治5年12月の給料と、明治6年の閏月の給料の2か月分を浮かすことができたとのことです。
うそかほんとかわかりませんが・・・
ずるい・・・
まぁそれだけが理由ってことはないと思うけどね・・・でもそれが理由の一つであってもおかしくはないと思うよ
最後に
いかがだったでしょうか?
明治維新は改暦だけでなく、様々な社会システムが急変しました
しかし、日本人はそれを乗り越え、今では旧暦が何かよくわからない人がほとんどでしょう。
この時期の変化を乗り越えた日本人にとても強さを感じました。
それにしても暦の話はとてもおもしろいので、また機会があれば書きたいと思います。