マルティン・ルーサー・キングJr~アメリカ合衆国の理不尽な常識と戦った真の愛国者~

日本人にとって、「人種差別」はあまりピンとこない言葉かもしれません。
しかし、世界では、合法的な人種差別がありました。
世界最大の経済大国であり、軍事大国であるアメリカ。
「自由の国」を標榜するこの国でも、合法的に黒人を差別することが認められている時代がありました。
それもたった、60年前まで・・・
「キング牧師」と呼ばれる、マルティン・ルーサー・キングJrは黒人差別の解消を目指したアメリカ人の牧師です。
世界であまりにも有名なキングはどのような生涯を送り、アメリカに何をもたらしたのでしょうか。
こぶた
キング牧師が差別をなくすために尽力した人、っていうのは有名だよね
ぶたちく先生
そうだね!でもその時代背景などを知ると、キング牧師がどれだけすごいことをしたかよく理解できると思うよ!

黒人差別ってどんなもの?

キングについて知る前に、まずは当時のアメリカがどんな社会だったのか説明しましょう。

奴隷解放宣言まで

具体的に黒人差別とはどのようなものだったのでしょうか。
1863年、当時のリンカーン大統領が奴隷解放宣言を行いました。
ちなみに、この宣言が行われたのは、南北戦争の真っただ中。
南北戦争は奴隷制を維持したい南部と、廃止を目指す北部の対立、という構図が戦争の大きな原因の一つでした。
つまり、南北戦争までは「黒人奴隷」は普通だった、ということですね。
アメリカ南部はプランテーションという大規模農園を運営する白人が多く、その労働力が必要なため、奴隷制の存続を求めたのです。
そのような社会で、
「アメリカ合衆国は奴隷制度を終わらせるよ!」
というのがこの奴隷解放宣言だったのです。

南北戦争後

南北戦争が終結し、奴隷制は廃止されます。
1868年にはアメリカ合衆国憲法で黒人にも市民権が認められました。
しかし、アメリカ南部では、黒人に対する差別意識が強く、多くの州で「ジム・クロウ法」と呼ばれる法律ができました。
これは、1964年に公民権法が確立されるまで続いた黒人分離の法律です。
この、ジム・クロウ法、どんな内容だったのでしょうか?
以下は一例です。
バスの待合、チケット売り場、座席が黒人用と白人用がある
白人と黒人・有色人種が同じ部屋で食事できない
黒人と白人は結婚できない
事実上黒人が投票できないように制限を課し、投票権を奪う
こんなことが法律で決められるなんて、今では考えられないですよね。
この法律は、州法でアラバマ州、フロリダ州、ミシシッピ州、ジョージア州など、南部の州で法律として制定されていました。
こぶた
え!?そんな法律があったの?ひどすぎるよ・・・
ぶたちく先生
そうだね・・・でもそれが法律としてできたということは、州の人は望んでいた、とも言えるんだ・・・

キング牧師について

そのようなアメリカ合衆国において1929年、キングは3世代続く牧師の家系で生まれました。
小さなころから、父が白人警官に侮辱されたり、白人主義者が黒人を暴行している現場を目撃しています。
さらに、キング自身も、小さい頃によく遊んでいた白人の友達の親から、「もう遊んではいけない」と言われた経験があります。
そんな彼は、社会に奉仕する活動をすべく父や祖父と同じ、牧師の道を進みます。
その後、次で述べる、バスボイコット運動を契機とし、公民権運動の指導者的な立場となります。
ここでいう公民権運動とは、黒人が社会の中で白人と同等の権利を有することを目指す運動です。
39歳という若さで暗殺されてしまいますが、アメリカ合衆国史を理解するうえで欠かせない人物です。

バスボイコット運動

1955年、ある事件が起きます。
当時のアラバマ州ではこんな法律がありました。
「黒人は公共のバスの後部座席に座り、前部座席が満席になった場合は、白人に後部座席を譲らなければならない」
ある日、ローザ・パークスという黒人女性が白人男性に席を譲ることを拒否したために、逮捕されました。
キングを含む黒人の指導者たちは、モンゴメリー市のバスボイコット運動を組織します。
キングはこの運動の先頭に立ち、黒人だけではなく、黒人差別に反対する白人も含めて、バスの乗車拒否をしたのです。
結果的にアメリカの連邦最高裁はこの法律の違憲性を認定しました。
キングはこのバスボイコット運動全体の指導者でもありました。
そして、これをきっかけとして公民権運動の指導者のひとりとなったのです。
こぶた
法律があるだけじゃなくて、席をゆずらなかったら逮捕って・・・
ぶたちく先生
本当に理不尽極まりないね・・・

非暴力主義

キングの活動を語るうえで外せないのがこの非暴力主義です。
この「非暴力主義」という言葉だけを聞くと、あたかも「攻撃的ではない」ぐらいに考えてしまうのですが、背景を知ると、いかに難しいことかわかります。
当時の黒人差別というのは、常軌を逸しているものでした。

エメット・ティル事件

エメット・ティル事件という出来事がありました。
これも1955年のことです。
14歳の黒人の少年、エメット・ティルが惨殺体となって、川に捨てられていました。
原因は、ティルが白人の女性に声をかけ、それに激怒した女性の夫が後日ティルを誘拐し、リンチを加え、殺したというものでした。
ここまででもあり得ないのですが、この問題の異常性はまだ続きます。
なんと、全員白人である陪審員は、その全員が、女性の夫を無罪としたのです。
陪審員の一人は単に黒人を殺した、という理由で有罪にはならない、と述べました。
ティルの遺体は、損傷が激しく、リンチの凄惨さを物語っています。
何をどうしたら、こんなに損傷するんだ・・・という印象です。
それほどまでに、当時の社会において、黒人への暴力は容認されており、しかも多くの人は、それが悪だとも思わなかったのです。
こぶた
どうしてこんなことができるんだ・・・
ぶたちく先生
「白人が黒人より常に上」というあり得ないことが、当時は常識だったんだ。エメットはコックさんになりたかったらしい・・・

それでもなお非暴力

このような社会でしたので、白人の理不尽な暴力に対して、暴力で対応する、という考えもありました。
だって、何がきっかけで自分だけでなく、家族や恋人、友人が暴力を振るわれたり、殺されたりするかもしれない・・・
じゃあ抵抗するための力、つまり、武装や暴力による抵抗の準備をすることは、おかしいと思いません。
キング自身、最終的には暗殺されるのですが、それまでも逮捕されたり、家を爆破されたり、刺殺されかけたりと、散々な目にあってきています。
実際に白人に対する暴力的抵抗を掲げて公民権運動を行った団体もあります。
しかし、キングは違いました。
「暴力の抵抗であれば、戦える人しか参加できない。しかし、非暴力の抵抗であれば、老若男女問わず参加して、黒人全体が決して服従しているのではない、といういうことを意思表示できる」
というのがキングの考えだったのです。
この非暴力抵抗の例としては、
例えば、飲食店の白人専用席に黒人たちが堂々と座って注文をする。
飲食店は白人ではないので対応しません。
しかし、次の日はもっと多くの黒人が来て同じことをする・・・
そのような抵抗を繰り返すことで、社会に対して公民権運動を波及させていったのです。
こぶた
キング牧師・・・すごい覚悟だ!!!
ぶたちく先生
この非暴力こそがキング牧師の代名詞だ。決して諦めの無抵抗ではなく、暴力を振るわないことが一番の抵抗になる、と信じたんだ!

最後に

1963年、リンカーン大統領の奴隷解放宣言から100年の記念として、デモ行進を行いました。
この行進に参加していたのは、黒人だけではありません。
黒人が差別される現状に異論を持つ白人も多数参加していました。
例えば、キング牧師が白人に対する暴力の抵抗を選んでいた場合に、ここまで白人たちはデモに参加したでしょうか?
このデモ行進の際にキングは有名な「I have dream・・・」の演説を行います。
この中で、キングは、「自分の子供たちが皮膚の色ではなく、人格の中身で評価される国に住むようになること」を夢見ています。
キングは、黒人差別だけではなく、白人も含めた貧困層の救済や、反戦活動も行いました。
全てがアメリカ合衆国に対する愛国心であり、その想いで行動していたのだと思います。
こんな記事では語りきれない、キング牧師ですが、興味があれば、皆さんも調べてみてください。
参考