17歳で戦場にでて、19歳で処刑されたジャンヌ・ダルク。
現代では考えられない人生です。
しかし、彼女の人生は、時代や国、宗教を超えて今も語り継がれています。
嘘みたいな漫画みたいなゲームみたいな話ですが、今回はジャンヌの生涯についてお話ししましょう。

本当に漫画の設定みたいだね・・・

絶体絶命のフランスに突如現れて、戦況をひっくり返したからね・・・
目次
戦場に向かう少女
ジャンヌはなぜ17歳で戦場に出ることになったのでしょうか。
まずは生い立ちから追ってみましょう。
ジャンヌの生い立ちと当時の状況
ジャンヌ・ダルクは1412年、フランス東部のドンレミ(現在のドンレミ=ラ=ピュセル)という町で生まれました。
父は農民です。
当時、フランスはイギリスと戦争状態でした。
1337年に勃発した百年戦争ですね。
戦争は長期化していましたが、黒死病の流行の影響もあり、フランスは劣勢状態、フランス国民や軍は疲弊し、絶望の中にいました。
さらに、反国王派との対立もあり、フランス国内は大混乱状態でした。
そんな状況でしたが、ドンレミはフランス国王への忠誠心の高い地域で、ジャンヌの父もフランス国王を支持していました。
神の声を聞く
子供のころから、教会に行き、ピクニックに行くような一般的な同世代の女の子と同じ暮らしをしていました。
しかし、ジャンヌは12歳の頃、家の庭で突然神のお告げを聞きます。
内容は「ちゃんと教会に通うように」という内容でした。
ジャンヌは敬虔なキリスト教徒でしたが、そのお告げをあまり信用していませんでした。
しかし、何回も聞いているうちに、徐々にお告げの内容が具体的になっていきます。
そしてついに、このような神のお告げを聞くのです。
「イギリス軍を追い出し、シャルルを王にするように」
ジャンヌはついに神のお告げを聞いていることを確信するのです。
国王のもとへの旅
1428年、ジャンヌはフランスを救うため16歳で家をでます。
最初に向かったのはヴォクラールという町です。
そこでヴォクラールの警固隊長ボードリクールに、シャルル7世に会わせてくれるようお願いします。
「なんだ!小娘!早くお母さんのところに帰りなさい!」
激しく反対されますが、粘り強く交渉し、ついに国王のいるシノンへ向かうことが許されたのです。
さらに、ボードリクールの部下の中にもジャンヌを信じる者が現れ、シノンまでジャンヌを護衛することになりました。
ヴォクラールから約600キロ離れたシノンまでは厳しい道のり。
イギリス軍や反国王派に出くわすかもしれません。
しかし、ジャンヌは同行する兵士たちを励ましながら、ついにシノンに到着するのです。

神のお告げか・・・本当に聞いたのかな?

それはわからない・・・ただ、変な妄想だけでできる旅ではなかったのは確かだよ!
オルレアン解放とシャルル7世戴冠式
シノンに到着したジャンヌ一行。
ここから数か月の間とんでもないスピードでとんでもないことがたくさん起こります。
シャルル7世に謁見する(1429年3月)
シノン到着後、ボードリクールの手紙などもシャルル7世のもとに届いていましたが、当初国王は謁見を渋りました。
しかし、ついにジャンヌとの謁見を許します。
ジャンヌははっきりというのです。
「神は私にあなたをランスで即位させよと言いました」
当初は半信半疑だったシャルル7世も、淀みのないジャンヌの話に聞き入り、ジャンヌを信じるようになります。
さらに、フランス王族達はジャンヌに甲冑、馬、旗印など軍備一式を寄付します。
ここからジャンヌは男装をするようになるのです。
オルレアン解放(1429年5月)
1429年4月29日、ジャンヌは軍勢を預かり、パリの南130㎞ほどにある町、オルレアンに到着します。
オルレアンは、半年以上イギリス軍に包囲されており、陥落寸前でした。
ジャンヌはオルレアン到着前、敵の指揮官に降伏を勧告する手紙を送ります。
ちなみにジャンヌは読み書きができなかったので、手紙は筆記官に書かせたものです。
そして、ついにジャンヌたちが町を包囲している要塞に旗を掲げて突撃を始めます。
そしてわずか9日間でオルレアンを解放するのです。
シャルル7世戴冠式(1429年7月)
ジャンヌはオルレアン解放後、シャルル7世に勝利を報告します。
そしてさらにランスに行軍します。
ランスに進むには反国王派の地域を進む必要があるため、反対意見もありました。
しかし、ジャンヌは行軍を主張。
シャルル7世も行軍を決意します。
道中の反国王派の町は、国王軍をとりあえず通過させるという判断をし、ジャンヌたちは7月16日ランスに到着します。
翌日の7月17日にシャルル7世は戴冠式を開き、正式にフランス国王になります。
ここに、ジャンヌは神のお告げによる使命を果たしたのです。
ヴォクラールを出発してから、わずか5か月というスピードでした。

展開が早すぎる・・・

フランスは本当に敗戦寸前だったからね!もしフランスに余裕があれば、国王もジャンヌにも会わなかったかもしれないね。
異端審問
猛烈なスピードで変わる状況。
しかし、神のお告げによる使命を果たしたジャンヌと、ジャンヌを取り巻く状況に変化が表れます。
戴冠式後の変化
戴冠式後、シャルル7世は方針を変えて、反国王派と和平を結ぼうとします。
しかし、波に乗るジャンヌ達は、このままパリ奪還に向かおうとします。
ただ、ジャンヌにも神のお告げが聞こえなくなるという変化がありました。
当初の神のお告げであった、「シャルル7世を王にする」という目的を達成したからでしょうか・・・
ジャンヌ達は9月8日にはパリに到着し、パリへの攻撃を始めます。
しかし、攻撃は失敗・・・
ジャンヌも負傷し、軍隊には撤退命令が出されました。
そして、イギリスとフランスは休戦協定を結んだのです。
捕縛
束の間の休戦協定が失効し、1430年5月、ジャンヌはパリ北東のコンピエーニュに向かいます。
しかし、コンピエーニュでは反国王派の軍に囲まれ、馬から引きずり降ろされて捕虜になります。
ジャンヌは城内にとらわれてしまいます。
ジャンヌは果敢に何度も脱獄しようとしますが、全て失敗します。
窓からシーツをつなぎ合わせて塔から降りようともしたそうです。
結局、ジャンヌの身柄は反国王派からイギリスに売られ、パリ北西の町ルーアンに移送されます。
異端審問
ルーアンに移送されたジャンヌは異端審問にかけられます。
異端審問というのは、カトリック教会の信仰に反するかどうかを裁判するものです。
ジャンヌはほぼ全ての質問に理路整然として答えました。
連日10時間以上尋問されるも、そのすべてに正確に回答したと言います。
その聡明さや純粋さには審問官ですら魅了されました。

国王は助けてくれなかったの?

いや、ジャンヌを奪還するため兵を差し向けたり、反国王派のトップを脅したり助けようとはしたみたいだよ!
処刑
異端審問にかけられるジャンヌ。
異端審問では、カトリックの教義に反する信仰を持っていないかを尋問されます。
しかし、異端とこじつけられる例も少なくなく、ジャンヌもその例に洩れませんでした。
決まっていた結末
ジャンヌの異端審問は、イギリスがジャンヌを処刑するためのものでした。
しかし、ジャンヌを「異端」とする根拠がみつかりません。
異端の根拠となりえるのは、ジャンヌが戦いの間続けてきた男装と、宣誓の拒絶だけでした。
ジャンヌは、自分の神にしか誓わない、として宣誓をすべて拒絶していたのです。
しかし、度重なる尋問や、拷問にかけるという脅しに疲れきり、ついにジャンヌの心が折れてしまいます。
1430年5月24日、二度と武器を手にしないことと、男装しないことについて宣誓書に署名するのです。
しかし、その宣誓書には審問官が読み上げたこととは別のことが書いてありました。
ジャンヌは文字の読み書きができなかったため騙されたのです・・・
宣誓書に書かれていたのは、一生独房ですごすこと・・・
さらにジャンヌは宣誓に従い女性用の服を身に着けると、牢番に暴行されてしまいます。
ジャンヌは身を守るため、宣誓でしないと誓った男装を希望、身に着けたのです。
火刑
異端審問は一度悔悛すれば問題ないのですが、その後でさらに異端行為をすると問答無用で死刑になります。
一度男装をやめると宣言したジャンヌの男装は、死刑を意味しました。
ここまでイギリス側が計算していたことなのです。
1430年5月30日、ついに火刑にかけられます。
男装した三日後のことでした。
ジャンヌが希望したので、修道士の一人が、近くの教会から大きな十字架を借りてきて、棒につけて高く掲げました。
ジャンヌは絶命の瞬間まで、十字架を見つめてイエスの名を叫び続けたと言います。

そんなに卑怯なことまでするのか・・・

イギリスは何が何でもジャンヌを処刑したかった。裏を返せば、それだけジャンヌが脅威だったんだ!
最後に
いかがでしたでしょうか。
ジャンヌの生涯はドンレミで平和に過ごした16年間と、フランス王国と信仰のために戦った3年間の計19年という短い生涯でした。
百年戦争は、1453年フランスが、イギリスを追い出して終結します。
その後すぐ1455年、ローマ教皇はジャンヌの異端無効裁判を開催します。
そして、男装についても異端ではないことが確認され、ジャンヌが無実であることを認めました。
これだけ迅速に異端無効が出されたことも、教会がジャンヌを特別な存在と認めていたことを証明しています。
我々であれば、死んだ後に無効とか言われても・・・と思ってしまいます。
確かにそうかもしれませんが、純粋なジャンヌが異端とされて絶望の中人生を終えたことを考えると、この異端無効で少しは救われたのかもしれません。
ジャンヌはオルレアンを解放したときから今に至るまでずっとフランスの英雄、今もフランス国民に愛されています。