ユダヤ人の悲願だったイスラエル建国。
第二次世界大戦後、ついにユダヤ人はそれを成し遂げました。
しかし、まだまだ争いは絶えません。というか、イスラエル建国がこれから始まるアラブ諸国との戦争のきっかけになったのです。
そして、現代に至っても、イスラエルはアラブ諸国の多くの国と外交関係がありません。
ユダヤ人を迫害してきたのはキリスト教徒ですが、イスラム教徒が多いアラブ諸国とは何があったのでしょうか?
イギリスがユダヤ人には国を作ると約束して、パレスチナの独立も認めるって話だよね?
そうだね、今回の始まりはそこからにしよう!
目次
国連による分割提案
話を少し戻し、第二次世界大戦の直後をもう少し詳しく見ましょう。
第二次世界大戦後、戦勝国の間で「国際連合」という組織が作られました。もちろん今もあるアレです。
イギリスは、ユダヤ人に対して「ユダヤ人国家を作ってあげる!」(バルフォア宣言)といい、パレスチナには「独立を認めてあげる!」と伝えていました。
これが戦費調達のための二枚舌と批判されたやつですね。
パレスチナは一つしかないのに・・・
その結果、イギリスは板挟みとなりました。
手に負えなくなったイギリスはパレスチナ問題を、国際連合に委ねます。
最終的に国際連合の提案は、「パレスチナを分割し、ユダヤ人とアラブ人の二つの国家を建設し、聖地エルサレムは国際管理下に置く」というものでした。
しかし、この分割案は、ユダヤ人がパレスチナ地域の56%を得るものでした。
パレスチナの人口のうちユダヤ人は3分の1しかいないので、ユダヤ人にとって有利なものでした。
この提案にアラブ諸国が反発します。分割することすら許せないのに、こんな不利な条件で・・・ってことですよね。
反対に、ユダヤ人にとっては、歓迎すべきものでした。そして、パレスチナの意見も聞かないまま、1948年5月14日イスラエル建国を宣言したのです。
すると・・・
なんと!受け入れられないアラブ諸国は同じ日に即座にイスラエルに対して宣戦布告し、第一次中東戦争が勃発します。
建国宣言の日から戦争状態・・・!?
アラブ諸国にはそれほど受け入れられないことだったんだ。ここから大きな戦争が4回起こるよ!
4回の中東戦争
第一次中東戦争に始まりますが、基本的に平和な時期のほうが少ないと思ってください。
時系列は次の通りです。※()内は別名
1948年 第一次中東戦争(パレスチナ戦争)
1956年 第二次中東戦争(スエズ戦争)
1967年 第三次中東戦争(六日戦争etc.)
1973年 第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)
第一次中東戦争(パレスチナ戦争)1948年
きっかけは、先述の通り、イスラエル建国宣言に対する、アラブ諸国の反発です。
構図としては、エジプト、ヨルダン、シリア、レバノン、イラクの5か国VSイスラエルとなります。
イスラエルは建国すぐということもあり、組織が脆弱であるほか、軍事力でも圧倒的に劣りました。
しかし、2度の休戦を挟むうちに、組織を整備、武器等も調達し、反攻の準備を着々とすすめました。
対して、アラブ諸国は、最終的には8か国が参戦したものの、足並みがそろいませんでした。
これは、指揮系統がバラバラだったり、各国がそれぞれ思惑(功績や成果をできるだけ自分の国が欲しいよね!)があったことも原因とされています。
開戦から1年程度で停戦協定が結ばれ、第一次中東戦争はイスラエル軍の優勢という形で終結します。
結果的に、イスラエルの領土は、国連の分割決議案より広くなりました。
国連の分割案でパレスチナの領土とされていた、ガザ地区はエジプトの管理下に、ヨルダン川西地区はヨルダンの管理下に置かれます。
なぜかパレスチナ人の土地はなくなってしまったのです・・・
そのためパレスチナ人は行き場失い、レバノン、ヨルダンなどに大量の難民が発生しました。
第二次中東戦争(スエズ戦争)1956年
第一次中東戦争後、エジプトでは敗戦の不満から、王政に対する反発が強まっていました。
そんな中、エジプト革命が発生。エジプトは王政から共和制に移行。
さらに新政府はスエズ運河を国有化します。
当時スエズ運河の利益を得ていたのはイギリスでした。
イギリスは反発。さらに領土拡大を狙うイスラエルと共同してエジプトに侵攻します。第二次中東戦争の勃発です。
エジプトは、終始圧倒的劣勢で、降伏寸前まで追い込まれます。
しかし、冷戦中の米ソが協調してイギリス・イスラエルに撤退を通告するという、まさかの出来事が起こるのです。
さらに、国連でも停戦を要求する決議が採択され、国際社会の圧力がかかったイギリス・イスラエルは停戦を受諾します。
そしてこの戦争の結果、エジプトはスエズ運河を手に入れました。
第三次中東戦争(六日戦争)1967年
第二次中東戦争終了後、少し落ち着いた時間がありましたが、1964年にパレスチナ人によるパレスチナ解放機構が設立されるなど、緊張が高まっていきます。
そして、1967年にイスラエルがアラブ各国の空軍基地に空襲を行います。
アラブ側はほとんど抵抗できず、6日間で戦争はおわりました。
イスラエルは、シナイ半島全域、ガザ地区、ヨルダン川西地区、ゴラン高原を占領します。
イスラエルが一方的に勝利したのですが、停戦後もアラブ諸国も黙っておらず局地的な戦闘は続きました。
第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)1973年
第三次中東戦争で占領された地域を取り返すべく、エジプト、シリアがイスラエルに対し攻撃を開始します。
当初はアラブ諸国が優位に立つものの、イスラエルも反撃を強めます。
結果的にはイスラエルが押し返し、戦争は終了します。
しかし、この戦争ではエジプトが善戦したため、のちの1979年、イスラエルとエジプトは平和条約を締結し、シナイ半島をエジプトに返還することになりました。
ちなみに、この戦争ではアラブ諸国が親イスラエル国への石油の禁輸を行ったため、世界中で「第一次オイルショック」が起こりました。
こんなに何回も戦争してるんだね・・・
小さな局地戦も含めたら数え切れないほどあるんだ。それでも、世界中が何とかしないといけないと考えているよ!
オスロ合意
4度の中東戦争の後も、湾岸戦争が勃発するなど、中東情勢は安定しませんでした。
そんな中、イスラエル国とパレスチナ解放機構はノルウェーの仲介で合意を行います。
パレスチナ解放機構とはパレスチナ人で構成された組織で、簡単に言えば「イスラエルよ!パレスチナを返せ!」という組織ですね。
さて、オスロ合意の内容は、
①イスラエルを国家として、パレスチナ解放機構をパレスチナの自治政府として相互に承認する。
②イスラエルが占領した地域から暫定的に撤退し、5年間パレスチナ自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する。
というものです。
ついにパレスチナ人はガザ地区、ヨルダン川西地区での自治を獲得しました。
しかし、この合意の後、イスラエルの首相ラビン氏は暗殺されるなど、市民の間での敵対心は消えませんでした。
ハマスの台頭
パレスチナ自治政府にも政党があります。
対イスラエル穏健派の「ファタハ」という組織と強硬派の「ハマス」という組織です。
自治政府発足後から、政治の実権はファタハが握っていました。
しかし、2006年にはもうハマスが政権を奪取するという事件が起きます。
その後、ハマスはガザ地区を武力占領します。
そうして、ガザ地区はハマスが実効支配し、ヨルダン川西地区はハタファが実効支配している。という構図です。
イスラエルと敵対していたパレスチナも大きく二つに分かれているのです。
そしてイスラエルはハマスと紛争状態になり、現在に至る、というお話です。
最後に
パレスチナとイスラエルの話、とても難しいですよね。
ニュース等を見る際の参考にして頂ければと思います。
以下、最後にもう一度本記事をすごーく簡単に書いておきました。おさらいしてみてください!
① ユダヤ人がパレスチナにユダヤ人のための国を作りました。
② でもイスラエルはかつてパレスチナという地域で、パレスチナ人というアラブ民族が暮らしていました。
③ パレスチナ人は、イスラエルによって、パレスチナ地域から追い出されました。
④ アラブ人たちは怒り、パレスチナからイスラエルを追い出して、アラブ人の居住地を取り戻そうとします。
⑤ 戦争は4回起こりました。アラブ諸国と一緒に、追いやられたパレスチナ人も戦いました。
⑥ しかし、イスラエルには勝てませんでした。
⑦ パレスチナ人はイスラエルと共存する道を模索し始めます。
⑧ しかし、一部のパレスチナ人はやっぱりイスラエルを許せません。そして、今度はパレスチナ人同士で対立をはじめます。
⑨ 現在もイスラエルを許せないパレスチナ人とイスラエルは紛争状態です。