2022年の「世界経済自由度ランキング」で1位になったのは中国の都市・香港です。
皆さんは香港がイギリスの植民地だったことを御存じですか?
香港がイギリスから中国に完全に返還されたのは1997年のこと。
わずか25年ほど前、ごく最近のことなのです。
そして香港がイギリス領になったのは1842年。
日本の占領期を数年挟むものの、約150年に渡り、イギリスの支配下にありました。
香港がイギリス領になったのは「アヘン戦争」で清(当時の中国王朝)がイギリスに敗北し、南京条約でイギリスに割譲されたことがきっかけでした。
今回はアヘン戦争についてまとめてみたのでぜひ最後まで読んでみて下さい。

名前が印象的だから、アヘン戦争という戦争があったことを知っている人は多いよね!

そうだね。アヘン戦争は当時の世界情勢を反映した非常に重要な戦争で、その後の中国に与えた影響は計り知れないんだ!
目次
アヘン戦争時の時代背景
アヘン戦争に入る前に当時の時代背景について触れておきましょう。
清も貿易を制限していた
1616年、満州に建国された清国。
前王朝は明。
明は漢民族の王朝でしたが、清国は満州族の愛新覚羅(あいしんかくら)氏が建てた王朝です。
ちなみに最後の清皇帝・愛新覚羅溥儀はとても有名ですよね。
清国は江戸幕府と同じように、「海禁」と呼ばれる、日本でいうところの鎖国のような貿易管理を行っていました。
清の貿易に対する姿勢
1757年、清朝第6代皇帝の乾隆帝(けんりゅうてい、愛新覚羅弘暦)は、外国との貿易を広州港の一港に限定します。
さらに、「公行(こうこう、コホン)」と呼ばれる政府の特許を得た商人だけににその貿易を管理させました。
つまり、外国商人は公行を通さないと貿易ができない仕組みになっていたのです。
当時、清国政府は、基本的に貿易を「朝貢」として考えていました。
外国が献上品を持ってきて、それに対して返礼品を渡す、というスタンスです。
しかし、広州の商人からも海外と貿易したいという声が上がります。
そこで公行に貿易を管理させることで、朝貢貿易ではない貿易も認めるようになったのです。
イギリスの課題
当時、イギリスで中国との貿易を握っていたのは、イギリス東インド会社でした。
しかし、公行の制度で自由に貿易ができないため、対中国の貿易はイギリスにとって到底満足できるものではありませんでした。
イギリスにとっては
どのようにして自由貿易システムを確立するか
貿易を「朝貢」と考える清の意識をどのように変えるか
ということが課題となっていました。

そもそもなんで鎖国とか海禁とかで貿易を制限するの?

政府の支配力の維持のためだよ!宗教が広まったり、経済力を持つことで政府の支配が行き届かなることを懸念したんだ
アヘン貿易
「アヘン戦争」と呼ばれるくらいなので、アヘンが開戦の理由となっています。
なぜアヘンが戦争の原因になったのかを考えてみましょう。
イギリスの銀が流出
当時、イギリスでブームだったものがあります。
それは紅茶。
イギリスは清から大量の茶を輸入しており、大幅な貿易赤字でした。
イギリスは清に対して輸出もしていましたが、赤字に相当する分を銀で支払っており、イギリスの銀が清に流出していることに頭を悩ませていました。
そこでイギリスは銀の流出を食い止めるために対策を立てます。
三角貿易
清に対する大幅な貿易赤字の一方、イギリスはインドに大量の綿織物を輸出し、大幅な貿易黒字でした。
イギリスはインドに綿花を生産させ、それを利用して作った綿織物をインドに輸出していたのです。
当時のインドは事実上イギリスの植民地でした。
イギリスは銀の流出を防ぐために、インドを利用するようにします。
インドにアヘンを製造させて清に売ることで、清から銀を回収しようとしたのです。
「三角貿易」と言われる仕組みですね。
イギリスは銀で清から茶を購入(銀は清に)
清はインドから銀でアヘンを密輸入(銀はインドに)
インドはイギリスから銀で綿織物を購入(銀はイギリスに)
通常の三角貿易はそれぞれがウィンウィンになるはずですが、清は違法なアヘンの密輸入による流出であり、インドはそもそも不利な貿易・・・
笑うのはイギリスだけでした。
アヘンが蔓延する清
18世紀後半からイギリス東インド会社は清への売り込みを開始していました。
アヘンは麻薬の一種で、非常に中毒性が強いものです。
清ではアヘンの販売や吸引を禁止していました。
しかし、清の商人たちは密輸に応じていたのです。
特に清沿岸部の商人たちは政府の役人を買収して貿易を黙認させていたのです。
つまり汚職ですね。
こうしてイギリス東インド会社の対清貿易におけるアヘンの割合はどんどん増えていくことになります。
アヘンの輸入が大幅に増加し、清から大量の銀が流出するようになります。
そして、清国内ではアヘンが蔓延し、中毒者が激増することになります。
清によるアヘンの取り締まり
今度は清国が対策を迫られます。
銀の大量流出により、銀価格が高騰し、経済が大混乱していたのです。
そこで、清は
アヘンの取り締まりはもはや無理だから、輸入を認めて関税を取る
アヘンの取り締まりを強化し、アヘンの需要を撲滅する
という二つの方法を考えます。
清内でも意見が割れますが、清国は従来通りアヘンを禁止する方法を選びます。

儲けるために違法なものを売るなんてひどい話だ!

今ならマフィアや暴力団がやるようなことだからね・・・
アヘン戦争の開戦
林則徐による禁止
アヘンを厳罰化することにした清。
1838年、林則徐をアヘンの取り締まりに当たらせます。
林則徐は広州に赴き、アヘンの取り締まりを行います。
贈賄の誘いにも一切応じませんでした。
林則徐は外国商人たちに全てのアヘンの供出と「一切アヘンを持ち込まない」という誓約書を提出するよう要求し、今後アヘンを持ち込んだ場合は死刑にする旨通告します。
しかし、イギリス商人やイギリスの貿易監督官チャールズ・エリオットたちはこれを無視。
これに対し林則徐はイギリス商館に兵を差し向け包囲、アヘンを供出を約束させます。
林則徐は大量のアヘンの没収に成功し、没収したアヘンを処分したのです。
エリオット達は誓約書を出さずにイギリス人全員を連れてマカオに退去します
しかし、そもそもイギリス以外の国はアヘン貿易を行っておらず、通常通りの商業活動をつづけました。
そのため、エリオット達の退去は清には悪影響はありませんでした。
始まる小競り合い
林則徐はさらにアヘン撲滅に向けて圧力をかけます。
誓約書を提出しなかったマカオ避難中のイギリス人への食糧供給を禁止します。
イギリス人たちはマカオも放棄し、船上にまで非難します。
こうして、アヘンを扱うイギリス商人は清との直接の交易を完全に立たれてしまったのです。
イギリス商人の中にはアヘン以外の商業活動を行っているものもいたため、誓約書を提出する者も出てきました。
1839年10月、エリオットは2隻のフリゲート艦(小型の軍用艦)を率いて、清との交易をするイギリス商船の入港を妨害します。
さらに11月3日には清国の軍用艦への攻撃を開始しました。
清国側も29隻の船で応戦しますが、大敗北します。(川鼻海戦)
それほどまでにイギリスと清の戦力差はあきらかでした。
本格的な開戦から一時停戦
イギリス本国でも清との開戦を望む声が上がります。
しかし、開戦理由がアヘンの密輸ということもあり、反発も大きくなりました。
最終的に清への出兵は議会で271対262という僅差での可決となり、イギリス海軍が軍隊を編成し清に派遣します。
林則徐は応戦の為に広州に兵力を集めていましたが、イギリスは遠く離れた天津沖に到着します。
驚いた第8代清皇帝である道光帝は林則徐を左遷してしまいます。
道光帝はイギリスに交渉を求め、1840年9月、イギリスもこれに応じいったん撤収します。
川鼻条約からの再度の開戦
1841年1月20日、イギリスと清は川鼻条約を締結します。
内容的には清国に不平等なものでした。
条約に応じてイギリス軍が撤収すると清国内で強硬派が盛り返します。
道光帝も最終的に正式な条約締結を拒否。
イギリス軍は軍事行動を再開します。
イギリス艦隊は、清の沿岸地域にある都市を次々に制圧。
完全に制海権を握ります。
当時、鉄製の蒸気艦はまだ珍しいものでした。
しかし、イギリスは「ネメシス」などと呼ばれる小型の鉄製の蒸気軍艦を4隻ともなっていました。
武装はまだ大したものではなかったものの、清国の軍用船は全く歯が立ちませんでした。
この時からネメシスは「悪魔の船」と呼ばれるようになります。

29隻が2隻にやられちゃったの?

当時の清は風の力を受けて進む木造船しかなかったからね・・・鉄製の蒸気船の保有はとても大きかったんだ。
終戦
反撃できない清
アヘン戦争では、清も各地では奮戦しましたが、やはり圧倒的な力の差をひっくり返すことはできませんでした。
イギリス艦隊は揚子江から大陸に入り、「鎮江」を陥落させると、長大な運河を制圧されたことにより北京も補給を絶たれます。
戦意を喪失した清国は1842年8月、南京条約に調印し、アヘン戦争は終結します。
最終的に清国はほとんど反撃ができませんでした。
イギリス軍の兵力は19,000人に対し、清軍の投入戦力は約20万人。
しかし、イギリス兵の死者は数十人であるのに対し、清の死傷者は約20,000人に上りました。
南京条約
1842年8月29日、イギリスと清は南京条約に調印します。
南京条約で清は自由貿易を認め、自由貿易のための港を開きました。
さらにイギリスへの賠償金、香港の割譲、治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇などを認めることになりました。
難しい言葉が多いですが、めちゃくちゃ不利な条約です。
香港はこのあと1997年に中国に返還されるまで、イギリスの統治下であり続けます。
その後の清への影響
アヘン戦争終結後に清は、アメリカ、フランスとも不平等条約を締結することを余儀なくされます。
アヘンの輸入による銀の流出が止まらないため、清は国内でアヘンを生産し、銀の流出に歯止めをかけます。
それは同時に、清国内でさらにアヘンが蔓延することになるという、悲惨な結果にもなりました。
また、アジアの中で強大な存在であった清の権威は失墜することになり、衰退を早める結果となりました。
日本への影響
「えぇ!?清負けたの?ヤバくない!?」
江戸幕府の要人がそう言ったかわかりません・・・
しかし、日本にとって中国は長らく世界最先端の国であり、多くを学んできた国でした。
そんな大国が敗北したことは日本に大きな衝撃を与えたのは間違いありません。
その証拠に清が敗北すると、江戸幕府は薪水給与令を発令します。
薪水給与令は外国船に対して燃料や飲料水の補給を認め、穏便に出国させる、というものです。
1825年には異国船打払を発令して、外国船は砲撃で追っ払っていた日本・・・
ヨーロッパの強さを目の当たりにし、方針を大きく緩和したのです。
また、西洋式の砲術を採用するなど軍備強化を図っています。
明治維新における開国と攘夷で大論争になったことは、アヘン戦争と無関係ではないでしょう。

開戦の理由も一方的だったから納得できないけど、戦力差がここまであるとは・・・

大陸国家の清ですらこれだと、海洋国家の日本にとって蒸気船はさらに脅威だからね・・・
最後に
いかがでしたか?
アヘン戦争の大枠はわかっていただけたかと思います。
アヘン戦争を頭に入れておくと、この約10年後にペリーが蒸気船で浦賀に来たときの衝撃も理解できるでしょう。
「ついに来たがな・・・」と思ったことは間違いありません。
この戦争に関して言えば、イギリスがひどく、清がかわいそうに感じます。
儲かるためにアヘンを他国に密輸していたのですから、現代で同じことをすれば世界中から猛バッシングをうけたことでしょう。
当時はイギリスやフランスなどが世界中に植民地を作っていた弱肉強食の時代でした。
早々に産業革命を成し遂げた国に太刀打ちできるような国はなかなかありませんでした。
歴史を読むときは、当時の世界の情勢を理解しなければなりませんね。
香港はイギリス統治下で独自の発展を遂げ、中国への返還時に逆に混乱が起きました。
そこで中国は香港で50年間の社会主義政策を行わないことを約束しています・・・
返還から50年後の2047年になにが起こるのでしょうか。
アヘン戦争の影響はまだ続くのかもしれません。