1921年、中華民国内で組織された中国共産党。
第二次世界大戦終結後、中国共産党は中華民国政府を倒します。
そして、1949年10月1日に中華人民共和国を建国し、今に至ります。
事実上、中国共産党が全権を握るこの国では、思い切った政策をとることができます。
一方で歯止めが効かない権力は、歴史上、何度も国民を苦しめてきました。
今日ご紹介するのは「大躍進政策」。
中国共産党の創立党員であり、長らく最高指導者であった毛沢東が引き起こした大失策です。
毛沢東はなぜこの政策をとり、内容はどのようなものだったのでしょうか?

名前は知ってるけど、どんな内容だったんだろう?

まずは時代背景から説明しよう
目次
時代の背景・ソ連との関係悪化
中国とソ連の関係
そもそも、中国共産党はソ連の手引きで作られた組織です。
結党以来、中国共産党はソ連と良好な関係を維持してきました。
ソ連の最高指導者はスターリンです。
スターリンは1924年から1953年に死亡するまで、ソ連のトップに居続けました。
しかし、1953年3月5日、スターリンが死去します。
スターリンが死去したことで、ソ連の指導者はフルシチョフに変わります。
ここで、事件が起きます。
フルシチョフのスターリン批判
フルシチョフはスターリンの独裁と恐怖による支配を批判したのです。
さらにフルシチョフはアメリカとの関係を軟化させるなど、社会主義諸国のみならず、世界中に衝撃を与えました。
困ったのは毛沢東です。
毛沢東も独裁体制を敷いていたため、社会主義国の中心であるソ連の指導者が独裁を批判すると、自分の立場のみならず、共産党の立場も危うくなるのです。
もちろん毛沢東はスターリンを擁護します。
こうして、中国とソ連の関係が徐々に悪くなり始めるのです。

中国とソ連が仲良くない時があったんだね・・・

この関係悪化がこの後様々な問題になっていくんだ
百花斉放百家争鳴
フルシチョフがスターリンを批判したわずか3か月後、毛沢東は百花斉放百家争鳴(ひゃっかせいほうひゃっかそうめい)を提唱します。
これは知識人が自由に意見を述べるように促す運動でした。
なんか中国がこんなこと言い出すと怖いですよね・・・
その目的は、毛沢東の独裁体制への批判をかわすためです。
とはいえ、毛沢東は、共産党が支配するこの国で大した批判は出ないだろうと考えていました。
しかし、毛沢東の目論見は外れます。
なんと、共産党への批判が出まくったのです。
「なんやこれは・・・」
そう思ったかどうかわかりませんが、毛沢東は一転、知識人を弾圧する方向に舵を180度切り変えるのです。
知識人からしたら「いやいやいやいや・・・」ですよね。
結果的に共産党に反対する人をあぶりだす形になったのです。
毛沢東は、反共産党の人間は右派であるとして、この右派を取り締まることを「反右派闘争」といいます。
「闘争」とは名ばかりで弾圧です。
反右派闘争の指揮をとるのは鄧小平。
この反右派闘争により、知識人や野党の政治家約55万人が逮捕され、807万人が何らかの処分を受けました。
独裁体制という批判をかわすための政策が、結果として独裁体制を盤石なものにするという皮肉な結果になったのです。

見事な手のひら返し・・・こんなことがあっても維持される体制は恐ろしいね・・・

長い前置きだったけど、ここからが今日の本題なんだ・・・遅くなってごめんよ!
大躍進政策
きっかけとなった見栄っ張り演説
ソ連との関係性が悪化していく中国。
そんな中、1957年11月毛沢東とフルシチョフはモスクワで演説する機会がありました。
この中でソ連のフルシチョフが
「農工業生産でアメリカを15年以内に追い越す!」
と演説します。
むむっ!と思う毛沢東。
ソ連に対抗して
「農工業生産でイギリスを15年以内に追い越す!」
とぶち上げます。
当時イギリスはアメリカに続く世界第2位の経済大国。
毛沢東はいたって真剣ですが・・・
こうして、翌58年に発表した「五か年計画」のなかで、イギリスに追い越すための農工業大増産政策「大躍進政策」が織り込まれるのです。
これが、歴史的大飢饉のきっかけでした。

露骨に見栄を張ったんだね・・・
人民公社
大躍進政策の大きな柱の一つが「人民公社」です。
人民公社は、自給自足ができるように集団を作り、その中で農業、商業、工業、行政など生活に必要なすべてを備えたものです。
なんとなく、社会主義って感じですよね。
逆にいえば、その集団に属する人は人民公社なしでは生活できないようになりました。
普通に考えれば、各地の地域特性を考慮しながら、それを活かすほうがいいような気がするのですが
ちなみに、この人民公社では食事や住居も無償提供でした。
働いても働いてなくても生活は同じ・・・
人々の生産性は著しく低下しました。
四害駆除運動
農業の増産政策の一環として、「四害駆除運動」が実施されました。
これは、伝染病を媒介する蝿、蚊、ネズミ、農作物を食い荒らすスズメを徹底的に駆除しようという運動です。
どうやって駆除するか?
もちろん人海戦術です。
人々は、鍋やバケツなど音の鳴るものをたたいてスズメを追い回します。
すると休む間がなくなったスズメは、疲れて落ちてきて死ぬと。
逆に言うと、落ちてくるまで人々はスズメを追っかけ回すんですよね。
いや、働けよ!
人々はスズメの巣を落とし、卵を割り、ひなを殺しました。
鳥は資本主義の象徴という意味不明なレッテルまでもスズメが引き受けました。
なんとこの政策のせいでスズメは絶滅寸前にまで追いやられます。
生態系を壊すこの行動。
スズメが減ったことにより、スズメが食べていた害虫が大量発生し、これが各地で壊滅的な飢饉をもたらしました。

スズメ駆除に夢中になったことも、労働意欲をなくしていたことが関係してたのかもしれないね・・・
謎の農法
当時の中国で行われた農法がありました。
1つは密植。
これは、過剰な密度で苗を植え付ける農法です。
はい、失敗します。
もう1つは深耕。
種を植える時に2メートルほどの深い穴に植える方法です。
芽が出てきません・・・
これらの農法はきちんと植物の特性を考慮すれば有効な方法にもなり得るそうです。
しかし、当時の中国では科学的根拠など全くありません。
結果、うまくいかずこれも大飢饉につながります。
大製鉄運動
名前からしてもうヤバいですよね・・・
これは、鉄鋼の生産を増やして、近代産業の基盤とする、というものです。
目的はマトモなのです。
しかし、中国に大規模な製鉄所を作る力はありません。
そこで考えられたのが「土法炉」と呼ばれる、かなり原始的な製法でした。
その数なんと60万か所。
しかし・・・
そもそも炉を作る資材がない・・・
鉄鉱石が不足しているので、建物や設備を壊して原料にするという謎の行動・・・
燃料がないので木炭製造のために大量の木を伐採し、洪水が増える・・・
おまけに素人同然の人間が行うのでできるのは鉄くずばかり・・・
これが負の連鎖というものです。
しかし、ノルマがあるため、苦肉の策で、農家に鉄製農具を供出させて、それを溶かしてさらに鉄くずを増やすという地獄になりました。
1117万トンの鉄が生産されましたが、その6割が粗悪品でした。
農地は荒れ果て、農具を供出したので生活の基盤を失い、農業の生産性まで著しく低下したのです。

ずばり本末転倒だね!
結果起こった大飢饉
このように農業の生産性が下がり続けてもノルマはあります。
ここで思い出してほしいのです。
冒頭の百花斉放百家争鳴。
このころ、中国では独裁体制がより強化され、毛沢東には誰も反対できません。
それどころか、ノルマを達成できないなどとなると、𠮟責で済むかどうかもわかりません。
どうするか・・・
成果を水増しして報告するのです。
成果が水増しされると、さらに高いノルマと税金が課され、さらに水増し・・・
結果起こったのが中国最大の大飢饉です。
この政策を断行したせいで、なんと4000万人以上が餓死したと言われています。

全ての行動が飢饉になるための行動になっているような気がするよ・・・

4000万人は中国の発表だから、実際にはもっと多かったと考えられているんだ
最後に
毛沢東は1959年、大躍進政策失敗の責任を取って国家主席を退きます。
何がすごいって、独裁体制の中国が反省するほどの大失敗なのです。
当時、共産党指導者には、需要と供給、インフラ、経済のメカニズム、生態系などを考えられる人材がいませんでした。
これらの原理などをすべて無視し、単に数字だけを追った結果、多くの中国国民の命が失われました。
ちなみに、この時はチベットも巻き込まれて大飢饉になっています。
少なくとも自由に発言できること、それによって建設的な議論が巻き起こることがいかに重要か示しています。
大躍進政策の失敗により、毛沢東は失脚しますが、これが後の文化大革命につながることになるのです。
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